外伝 第27話 返信
東京駅の迷宮で、子供を抱えてうずくまる父親に会った。背中には、崩れた石から子供をかばったらしい深い擦り傷があった。
五歳くらいの男の子が、父親のシャツを握りしめていた。
「大丈夫だから」
父親の背中には血が滲んでいた。それでも子供を抱き寄せた。
僕はその光景を見ながら、莉奈を見た。
莉奈の目が揺れた。僕は何か言おうとして、やめた。彼女の父が何を言ったか、僕は知らない。
僕たちは親子を排出ポイントへ案内した。
紫色の光が子供を抱いた父親を包んだ。シャツを握る小さな手が、最後まで離れなかった。
二人の姿が消えた後も、僕はそこを見ていた。
僕は自分の掌を見た。
父の服にしがみついたことがあっただろうか。
幼い頃の写真にも、そんな場面があったかもしれない。
今は、思い出せなかった。
* * *
東京駅のドームが一瞬透けた。外の広場に、父と母がいた。
二人で来ていた。
二人の間には、人ひとり分の隙間があった。
父も母も、ドームを見ていた。
食卓でさえ、二人の目が同じ場所を向くことは少なかった。
莉奈が隣に立った。
「来たじゃん。しかも今度は帰らないで待ってる」
「……うん」
返事の後で息を吸い直した。
紫の膜の向こうで、父も母も同じ場所に立っていた。
* * *
ドームが消えた。
東京駅の丸の内側に、朝焼けが差していた。
外へ出た時、父とバリケード越しに目が合った。
救護所で傷を診てもらい、十四人で顔を合わせて、遠方の仲間たちを見送った。
そのあと、僕は規制線の向こうを見渡した。
金子は最後まで僕の手の傷を気にしていた。
莉奈が「健一の親も来てるから」と広場の端を示すと、ようやく大阪と和田を追って歩き出した。
僕はその背を見送り、広場へ目を戻した。
僕は──群衆の中に、二つの影を探していた。
いた。
広場の端に父と母がいた。
母が右、
父が左。
二人の間は人ひとり分。
今度は僕を見ていた。
足が動いた。
走ろうとした。でも、走れなかった。
どんな顔をすればいいか分からなかった。
何と言えばいいか分からなかった。「ただいま」? 「心配かけてごめん」?
父が──こちらを見ていた。
もう一度、目が合った。
何も言えなかった。
父も何も言わなかった。
母も何も言わなかった。
三人とも黙っていた。
いつも通りだ。
テレビの音がない分、さらに静かだった。
でも、歩いた。
僕は二人のほうに歩いた。
走らなかった。
普通の速度で。
猫背で、肩を内側に巻き込んで。
父と同じ歩き方で。
父の隣に立った。
母の隣にも立った。
三人で並んだ。
会話はなかった。
「帰ろうか」
母の声は静かだった。
いつもの「晩ごはん何がいい?」と同じトーンで。
「うん」
三人で駅から離れる方へ歩いた。
父は隣にいた。
父の靴底が、トン、トン、と鳴る。
僕は少し歩幅を狭めた。
肩がぶつからないくらいの距離で、父の隣を歩いた。
* * *
東京駅ダンジョンから、ひと月ほどが経った。
帰還から十日後のカフェでは、父親へ電話する莉奈の隣にいた。それからも、何度か二人で会っている。
日常は戻っている。
学校。
授業。
放課後。
以前と違うのは、放課後にカフェに寄ること。
莉奈と。たまに山岸と小保内が合流する。
グループチャットが一日中動いている。金子のスタンプは相変わらず止まらない。
ある土曜の昼、莉奈がグループチャットに投稿した。
莉奈:フラペチーノ飲みたい。
僕は三文字で返した。
健一:行こう
「行こう」と打ってから、僕は画面を見つめた。莉奈の誘いにすぐ返事をするのは、まだ少し照れる。
カフェで向かい合って座った。
莉奈がフラペチーノを飲んでいる。ストローがずずっと鳴る。
「ねえ健一」
「なに」
「アンタ、最近なんか変わった」
「変わった?」
「うん。なんか──言葉が早くなった。前は何か言う前に三秒くらい考えてたのに、最近はすぐ返ってくる」
「そうかな」と僕は返した。
ストローの音を聞いて、自分の返事までの間が短くなったことに気づく。
「変わったのかもね。莉奈も変わったよ」
「アタシ? どこが」
「フラペチーノが美味しそうに見える」
莉奈が一瞬ぽかんとして、それから「なにそれ」と笑った。
僕も笑った。
* * *
家に帰った。
玄関で「ただいま」と言った。
母が台所から「おかえり」と──言った。声が聞こえた。小さな声。
でも確かに「おかえり」と言った。
最近、母は時々「おかえり」と言う。
僕は毎回、聞き返さずに靴を脱ぐ。
食卓に座った。
テレビはついている。
ニュースの音が流れている。
父はソファにいる。
いつも通りだ。会話はない。
スマホが震えた。
父からのメッセージ。
「元気か」
同じ家のソファから届いた、短い文。
父は画面を見たまま顔を上げなかった。
僕は五分迷った。「心配してくれてありがとう」と打ちかけて、消した。
来てくれたことは嬉しい。
でも、新宿で帰っていった理由は、まだ聞いていない。
普段、食卓で何を考えているのかも。
まずは短く打った。
「元気だよ」
送信すると、ソファで父のスマホが震えた。
画面を見ても、父の表情は変わらない。
スマホを置き、リモコンへ手を伸ばした。
「父さん」
僕が呼ぶと、その手が止まった。
「新宿で、来てたよね」
「……ああ」
「どうして、声をかけずに帰ったの」
父がこちらを向いた。
口を開き、閉じる。
僕は待った。
父の目が一度テレビへ動き、また僕へ戻った。
「……何を言えばいいか、分からなかった」
声が小さくて、テレビの言葉と重なった。
父はリモコンへ伸ばした手を、そのまま膝へ戻した。
「来てくれたのは、嬉しかったよ」
僕はテーブルの縁を見た。
「でも、帰っちゃったから」
父の膝の上で、指が動いた。
「そうか」
その先は、続かなかった。僕もすぐには顔を上げられなかった。
母が流しの水を止めた。濡れた皿を持ったまま、僕たちを見ていた。
父はリモコンを取らなかった。
僕も自分の部屋へ戻らず、テレビの声を聞いていた。
次に何を言おうか、まだ考えていた。
* * *
グループチャットが光っている。
金子のスタンプ。
大阪のツッコミ。
和田のボケ。
テツの二文字。
ダイの「おやすみ」
マーサの「おやすみなさい!!!」
僕は布団に入りながら、チャットを眺めた。
明日も莉奈と歩く。
少しずつ、歩幅を合わせて。
目を閉じると、
テレビの向こうから父の低い咳が聞こえた。
僕は布団の中で、
もう一度「元気だよ」と声に出してみた。
外伝 第四章 僕の隣に雷が落ちた日 了
健一「最後まで読んでくださって、ありがとうございます」
莉奈「……アンタ、挨拶まで練習した?」
健一「三回くらい」
莉奈「やっぱり」
健一「何を話そうか考えていたら、長くなっちゃって」
莉奈「読んでくれてありがとう、でいいじゃん」
健一「莉奈も言ってくれる?」
莉奈「なんでアタシが」
健一「隣にいてくれたから」
莉奈「……あとがきまで、そういう言い方すんの?」
健一「え、何か変だった?」
莉奈「別に。……読んでくれて、ありがと」
健一「うん。ありがとう」
莉奈「今のは読んでくれた人に言ったの」
健一「分かってる。でも、僕からも」
莉奈「……もう。ほら、顔上げなよ」
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『僕の隣に雷が落ちた日』を読んでくださり、ありがとうございます。
健一がその場で言えなかった言葉や、莉奈からは見えなかった気持ちを辿った三話でした。本編と重なる場面も、彼の側から読むと少し違うものに見えたら嬉しいです。
彼が立ち止まった時間にも、言葉を返せた瞬間にも、お付き合いくださってありがとうございました。
次は『この指とまれ』(最終章)
舞台はそれぞれの日常へ。
離れた街にいる彼らの、短い返事や、
たわいないやり取りをお届けします。




