外伝 第28話 ミノタウロスの名前
この指とまれ
東京駅の迷宮から帰った翌日、健一に保護担当官から電話が来た。イカロスに会いに通ううちに、番号を伝えてあった。
「高橋さん。実は、あの方の保護登録に名前が必要でして。現在は『被保護者A』としか登録できていないのですが。ダイダロスさんにご相談したら、高橋さんに訊いてほしいと」
名前。
王が最後まで与えなかったものを、登録のために健一が決めていいのだろうか。電話口で、すぐには返事ができなかった。
「……本人に、決めてもらうことはできますか」
「言葉が通じませんので、難しいかと」
「候補をいくつか持っていきます。選ぶのは、本人にしてもらえませんか」
電話の向こうで、担当官が少し黙った。
「……分かりました。明後日、書類を持って伺います」
その夜、健一はグループチャットを開いた。
七人で使っていた「新宿ダンジョン同窓会」は、帰ってきた日にメンバーが増え、十四人とダイダロスとイカロス、合わせて十六人になっていた。
昨日のやり取りが、まだ画面に残っていた。
ダイ:新宿に行ってないやつもいるし、グループ名も変えないか
金子:イグザム迷宮と愉快な仲間たち!
大阪:自分らで愉快て
金子:イグザム迷宮! 全員集合!
大阪:もう集まっとるわ
和田:イグザム迷宮をしのぶ会
大阪:縁起でもないわ!
健一:イグザム迷宮同窓会、でどうですか
金子:それ! 全員入っとる!
グループ名は「イグザム迷宮同窓会」に変わっていた。健一は最新の投稿まで戻り、入力欄を開いた。
健一:お願いがあります。保護施設のあの子に、登録用の名前が要るそうです。本人に選んでもらいたいので、候補を一人一つずつください。全部却下になっても、それでいいと思っています
健一:僕からは二つ。アステリオンと、アステリオス。古い神話に残っている呼び名で、同じ名前の呼び方違いです。どっちがいいかは、僕が決めることじゃないので
莉奈:アンタだけ二つ。ずるい。
大阪:一人一つ言うたん、健一くんやで
健一は返信欄を開いたまま、指を止めた。返す言葉が見つからなかった。
金子:はいはいはい! ローリングサンダーアタック!!
大阪:技名やん
大阪:山田太郎。普通でええねん
和田:ポチ
大阪:ペットちゃうねん
和田:ほな、タイガ。タイガーの虎と、大河。強さと大きさや
莉奈:フラペチーノ! あ、待って フラッペ!
和田:フラッペ、かき氷のことちゃうん
ダイ:秀人。シュートのシュウト。最後は自分で決めるやつ、って意味だ
佐藤:エドモン。十四年閉じ込められて、外へ出て、生き直した人の名前です。後半の復讐のところは、真似しなくていいです
十四、という数字を見て、健一の指が止まった。東京駅に集まった自分たちも、十四人だった。
輪島:栄光
金子:えいこう?
輪島:エコー
和田:当て字や
輪島:呼んだら、返ってくる
汐沢:アシッド。……うちのは却下でいい
イカロス:アイボー!! テレビで覚えた!! 一番近い仲間のこと!!
ダイダロス:アトラス(私が決めるものでもなかった)
誰も、その括弧には返信しなかった。いつもの丁寧な言葉は、そこにはなかった。
そのあとに届いたのは、
山岸のイチロー(一番打者だから)、
小保内のムサシ(大きいスカイツリーの六三四メートルで「むさし」)、
テツのパワー(マーサに理由を訊かれて「強い」と)、
マーサのリク(外をどこまでも歩けるように)、
伊禮のレナート(生まれ直す、という意味だそうだ)だった。
翌日の夜、健一は届いた順に、一枚に一つずつ候補をカードへ書き写した。十七枚になった。
約束の日、保護施設を訪ねると、ミノタウロスが庭にいた。
新宿で鎖が外れた時は十メートルあった身体が、東京駅で呪いを解かれて四メートルまで縮んでいた。それでも庭の木より高い。
ミノタウロスは庭の隅で、座っていた。牛の頭を少し傾けて、花壇の花を見つめている。
赤い目は──かつての濁りが薄れ、琥珀色の光が混じり始めていた。
「こんにちは」
健一が声をかけると、ミノタウロスが顔を上げた。
「ムゥ」低い声。
顔を覚えてくれているらしい。
保護担当官が近づいてきた。電話で話していた書類を手にしている。名前の欄は、まだ空いていた。
健一はミノタウロスの前にしゃがんだ。座ったままでも、顔は健一よりずっと高い。牛の頭が、ゆっくりとこちらに向いた。
「名前、ほしい?」
どこまで言葉が通じるかは分からない。それでも声のトーンは伝わる。伊禮が言っていた。「声に感情が乗る」と。
少しだけ首を傾けてから、頷いた。人間の動作を覚えたらしい。言葉より、声の調子に応えたのかもしれない。
「うん。……みんなから、候補を預かってきた。聞いてくれる? 嫌なら首を振って。全部嫌でもいいし、今日決めなくてもいい」
健一は鞄からカードの束を出した。読んだ順に、彼の前の芝生へ一枚ずつ置いていく。
最初の二枚は健一の分だ。「アステリオン」「アステリオス」
どちらの時も、身じろぎしなかった。
赤い目が、二枚のカードと健一の口元を行き来しただけだった。
「ローリングサンダーアタック」「山田太郎」「タイガ」
三枚続けて、首を横に振った。
「フラッペ」
首が横へ動くまで、一秒だった。
健一は次のカードを手に取り、この反応だけは莉奈に黙っておこうと思った。
「シュウト」「エドモン」「エコー」
「エコー」で、短い声が返ってきた。「ムゥ」
呼んだら、返ってくる。
輪島の言ったとおりになって、健一は少し笑った。
彼も鼻を鳴らした。それでも、首を横に振った。
「アシッド」は出した本人が却下でいいと言っていた。
彼も首を振った。
「アイボー。……イカロスくんから」
イカロスの名前で、赤い目が施設の窓へ向いた。
小さく鳴いただけで、首はどちらにも動かさなかった。
「アトラス。ダイダロスさんから」
施設の方をしばらく見てから、首を横に振った。
「イチロー」「ムサシ」「パワー」「リク」「レナート」
残りのカードも芝生に並んでいった。
彼はどれにも首を振ったが、振り方は少しずつ遅くなった。
聞いて、考えてから振っている。
十七枚が並んだ。
彼は長いあいだ、芝生の上を見ていた。
それから大きな手を伸ばし、
端の二枚──最初に置いたカードの上へ、指を下ろした。
「アステリオン?」
首を横に振る。
指が、隣の一枚へ移る。
「……アステリオス?」
今度は、頷いた。
どうしてそっちなのか、健一には分からない。
違うのは最後の一音だけだ。でも、分からなくていいと思った。
理由は、彼の中にある。
「この名前にする?」と訊くと、彼はカードに指を置いたまま、もう片方の手で自分の胸を指した。
「アステリオス」もう一度呼ぶと、赤い目がこちらを向いた。
四メートルの身体が、花壇の前で少しだけ起き上がる。
健一は保護担当官へ顔を向けた。
「本人が決めました」
担当官は書類を開き、空いていた欄へペンを置いた。
選び終わってから、意味を話した。
「星、っていう意味の名前なんだ」
昼の空を指さして、指先を小さく開いたり閉じたりした。
彼はその指を見た後、自分の額へ左手を当てた。健一は指を閉じ、その手が下りるのを待った。
カードを集めようとすると、大きな指が一枚だけを押さえた。
彼はアステリオスのカードを、そっと掌に載せた。
大きな掌の真ん中で、小さなカードが白く見えた。
帰り際、ダイダロスに話しかけた。
「ダイダロスさんは──あの子を名前で呼びたいと思ったこと、ありますか」
ダイダロスは長い沈黙の後、答えた。
「食事を運ぶたびに、呼ぶ名がないことは分かっていた。だが、私も呼ぼうとしなかった。……あの子が欲しがっているか、訊こうともせずに」
「でも今回は、候補を出してくれました」
「括弧つきでな」
ダイダロスの口元が、わずかに緩んだ。
「今は、あの子が選んだ名前で呼べる。……アステリオス、か」
健一は頷き、庭の方を見た。
庭に戻ると、
保護担当官が書類の空いていた名前の欄へ、
本人が選んだ名を書き込んでいた。
ダイダロスが「アステリオス」と呼ぶ。
アステリオスが花壇から顔を上げ、
ゆっくりと頷いた。




