外伝 第20話 図面の余白
迷宮が完成するまでには、幾年もかかった。
地下を穿ち、石を積み、通路を這わせる。一つの部屋から幾つもの道が伸び、その先でまた分岐する。私は地上で縄を張り、地下で壁の位置を確かめ、工房へ戻ると図面を引き直した。
王に見せるものと、自分だけが持つもの。図面は二組になった。
隠し扉の継ぎ目は、石の模様へ紛れ込ませた。罠には、作動させずに通り抜ける順序を残した。中央の部屋から外へ続く一本の道も、工事が進むたびに確かめた。
壁へ手を当てると、離れた通路まで形が分かった。私の力で繋いだ空間は、目で測るより正確に頭の中へ収まる。
だが、あの子をそこへ移した後のことは、図面には描けなかった。
私は設計の合間に、食事を運んだ。
王の命令ではない。侍女たちが近づきたがらないので、誰かがやらなければならなかった。最初は、そう自分に言い聞かせていた。
少年は、私の足音を覚えたらしかった。
階段を下りると、鉄格子のそばへ来ている。器を通す隙間が狭くなり、ある日、少年の手の甲が上の縁へ引っかかった。
「待っていろ」
格子の外から器を少し持ち上げると、手が抜けた。少年は自分の手を見て、それから私を見た。
角が伸び、毛が硬くなっていた。けれど赤い目は、初めて会った時と同じだった。
私は隙間の寸法を測り、帰る前に器の大きさを書き留めた。
器なら、変更できる。
少年が大きくなることのほうは、止められない。
後日、持ちやすい器を運んだ。少年は両手で受け取り、格子のそばに座った。
私はいつものように立ち去ろうとして、袖を引かれた。
格子から伸びた指が、布の端をつまんでいた。食事には手をつけていない。
「どうした」
低い鼻息が返った。
私は階段のほうを見た。戻れば、王に渡す断面図を仕上げなければならない。
少年は袖を離さなかった。
私は床に座った。
それでよかったらしい。指がほどけ、少年は器を引き寄せた。粥を食べる音が、冷たい部屋に響いた。
仕事の話なら、幾らでもできた。柱の間隔、水の流れ、崩れない天井の厚さ。だが、食事をする子の隣で何を話せばいいのか、私は分からなかった。
「今日は、風が強かった」
少年の耳が動いた。
「工房の窓を閉めた。紙が飛ぶのでな」
何も知らない相手に、何も見せず、風のことを話している。
私は口を閉じた。少年は食べ終えても、そのまま隣に座っていた。
工房に帰ると、イカロスが私の椅子に座っていた。
背が伸びていた。以前は床につかなかった踵が、今はしっかりついている。
「その仕事、まだ終わらないの?」
「もう少しだ」
「前もそう言ってた」
机の上には、翼の絵が置いてあった。昔の絵より骨組みが細かく、羽根の向きにも印がついている。
「鳥の翼は、先が少しずつずれるんだね。一枚の板じゃないんだ」
私は絵を引き寄せた。息子がどこまで自分で調べたのか、見れば分かった。
「この重なりはいい。だが、ここを留めると動かなくなる」
私が線を足すと、イカロスは身を乗り出した。
しばらく、二人で絵を見た。
息子が何か言い、私は声を上げて笑った。何と言われたのかは、今はもう思い出せない。二人で笑ったことだけが残っている。
水路の模型も、迷宮の図面も、脇へ寄せた。息子が描き直すのを待つ間、私は地下で袖をつかんだ指を思い出していた。
同じくらいの時間を、あの子にも渡せるだろうか。
翌日、食事の後も座っていた。仕事が遅れる分は、夜に取り戻せばよかった。
ただ、いつ戻るとも、また来るとも、少年には言わなかった。約束をしてしまえば、守らなかった日が分かるからだった。
ある日、少年が声を張り上げた。
「ムゥゥゥ」長く、低い声だった。
鉄格子へ額を押し当て、息を継いではまた鳴く。
外へ出たいのか。母を呼んでいるのか。ただ、誰かに返事をしてほしいのか。
私には分からなかった。
声が途切れたところで話しかけると、少年は格子から少し離れた。床へ指を下ろし、爪で白い線を引いた。
線は短かった。爪が滑るたび、違う方向へ走る。
私は自分の図面を床に広げかけた。
少年が手を伸ばしたので、反射的に紙を持ち上げた。大事な図面だった。汚せば、描き直さなければならない。
指が空をつかんだ。
私は紙を見下ろし、何も描いていない裏面を少年へ向けた。
少年は、私の手から紙を受け取ろうとした。紙の端が格子へ当たった。
巻けば通せる。私はそう思いながら、少年へ渡すためではなく、持ち帰るために図面を巻いた。
工房へ戻り、中央の部屋の壁から装飾の線を消した。手の届く高さに、絵を描ける余白を残す。
言葉がなくても、線なら引ける。
少年のための解法を、一つ増やしたつもりだった。紙一枚を渡さなかったことは、図面のどこにも残らなかった。
名前をつけようと思ったこともあった。
器を置くたびに「お前」と呼び、帰る時には呼びかけすらしない。それでは、階段の上にいる誰かに話すのと変わらない。
「お前に名前がないのは、お前のせいじゃない」
少年の耳が、私の声へ向いた。
何と呼ぼう。
候補を考えると、工房でイカロスの名を呼ぶ自分の声が浮かんだ。
返事がなければ呼び直す。
姿がなければ探す。
夕食の時には、皿を一枚多く並べる。
あの子に名前をつけた後、私は何をするのだろう。
宮殿から連れ出すのか。
自分の家へ迎えるのか。
王に、この子を返せと言えるのか。
私は、少年の器へ目を落とした。
食事は足りている。部屋の天井も、以前より高くなる。壁には絵を描ける。できたことだけを順に数えた。
名前は、口にしなかった。
迷宮が完成した日、王が見に来た。
分岐の先を見渡し、同じ柱が繰り返す回廊を歩いた。中央へ通じる道を教えると、王は途中で立ち止まった。
「お前なら、ここから出られるのか」
私は王の顔を見た。
「設計したのは、私です」
「ならば、他の者には分からぬようにしておけ」
私は頭を下げた。
隠し扉を知らせろとは命じられなかった。そのことに安堵していた。
最後に、王は中央の部屋を眺めた。まだ誰もいない部屋だった。
「見事だ。これなら、誰も出られまい」
「はい。……誰も」
王が去った後、私は隠し扉を開けた。
一人で道を辿る。
急な段差はない。
罠を避ける順序も間違っていない。
出口の扉を押すと、夕方の潮風が顔へ当たった。
私は、外へ出られた。
しばらくそこに立ってから、
扉を閉じた。
継ぎ目をもう一度確かめ、図面へ印をつける。
あとは、
この道を使う誰かが来ればいい。
その誰かに自分を含めないまま、
私は工房へ戻った。




