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外伝 第19話 名前のない少年

 迷宮設計者の告白


 私の名前はダイダロス。設計者だ。


 行き止まりには隠し扉を。

 罠には解除法を。

 絶望的な部屋には、必ず一本の糸を。

 私が設計するものには、必ず解法を残す。


 それが、設計者の矜持だと思っていた。


 クレタ島の風は、いつも塩辛かった。


 エーゲ海を渡ってきた潮風が、崖の上の工房に吹き込む。図面の端が持ち上がり、私は石の重しを置き直した。


 神殿の柱、水路の勾配、劇場の音響。


 作業台の上には違う仕事の図面が重なり、棚からは未完成の模型がはみ出していた。


 水路の模型へ、少しずつ水を注ぐ。途中で流れが淀んだ。


 図面の勾配は正しい。だが、継ぎ目に残ったわずかな段差が流れを止めている。私は模型の底へ薄い木片を差し込み、水が最後まで届くのを確かめた。


「父さん。こっちも見て」


 息子のイカロスが、工房の隅でパピルスを持ち上げた。


 まだ、声変わりをする前だった。茶色い巻き毛。私に似て手先は器用だが、図面を引くより、窓の外の鳥を見ている時間のほうが長い。


「人間が鳥みたいに飛ぶには、どんな翼が要る?」


 紙の上では、両腕に大きな翼をつけた人間が、崖から飛び出していた。


「翼が空気を押し下げ、その反作用で身体が浮く。だが人間の腕の筋力では──」


「じゃあ、もっと大きくする?」


 イカロスが翼の先を描き足した。長くなった翼が、紙の端にぶつかる。


「大きくすれば、その分だけ重くもなる」


「父さんなら作れるでしょ。天才なんだから」


 私は水路の模型へ目を戻した。天才という言葉には、もう何も感じなくなっていた。


「イカロス。そこの細い木を取ってくれ」


 返事がなかった。


 振り向くと、息子はまだ紙の端を見ていた。翼を短くする代わりに、もう一枚の紙を隣へ置いている。


「イカロス」


「聞こえてるよ。これでしょ」


 差し出された木片を模型の底へ挟み、私は小刀で継ぎ目の段差を削った。


 息子の絵は、その後で見ればいい。水が流れ切ったら、そうするつもりだった。


 使者が来たのは、翌日だった。


 白い衣をまとった神官が二人、工房の入り口に立っていた。


「ダイダロス殿。王がお召しです」


 王の召喚を断る言葉など、私は持っていなかった。図面を巻き、イカロスには海で遊んでいるよう言い残した。


「夕方には帰る?」


「仕事が済めばな」


「じゃあ、昨日の続き」


 息子は、二枚を並べた絵を指した。


 私は頷いて、戸を閉めた。


 宮殿の白い回廊を歩き、玉座の間に通された。


 ミノス王は、以前より老いて見えた。目の下に影が落ち、杖を握る手の節が白くなっている。


「ダイダロス。お前に依頼がある」


「何なりと」


「閉じ込める場所を造れ」


 私は図面を広げるための台を探しかけ、それから王へ目を戻した。


「何を閉じ込めるのですか」


 王は目を逸らした。


「息子を」


 宮殿の地下に、王の子がいるという噂は聞いていた。会ったことはない。姿を見たという者も、私の周囲にはいなかった。


「お名前は」


 返事が来るまで、杖の先が床を擦る音だけがした。


「……ない」


 私は続きを待った。


 王は何も言わなかった。


「誰の目にも触れぬように閉じ込めろ。中へ入った者は、二度と出せぬように」


 王の目が、私へ戻った。


「殺せる迷宮を作れ」


 膝をついたまま、私は頷いた。

 広さも、場所も、必要な石材も聞かないうちに、引き受けていた。

 王は侍従(じじゅう)に案内を命じ、自分は玉座から立たなかった。


 石段を下りるたびに空気が冷え、潮風の匂いが消えていった。鉄格子の近くには、乳の匂いに似たものが漂っていた。


 その向こうに、牛の頭をした子が眠っていた。


 幼児ほどの身体。

 短い角。

 柔らかそうな毛。

 丸めた身体の下から、人間の足が覗いている。


 侍従は階段の途中で止まった。


「どのくらい大きくなるのですか」


 私が尋ねると、彼は首を振った。


「お食事はこちらへ置いております」


 鉄格子の下に、器を通せる隙間があった。表面の乾いた粥が残っている。

私は膝を折り、床へ手をついた。冷たかった。


 子が目を開けた。


 赤い目が、私の指を追う。私が手を引くと、格子の内側から小さな手が伸びてきた。五本の指が、さっきまで私の手のあった場所へ触れた。


「……起こしたか」


 子は鼻を鳴らした。


 身を起こしかけ、頭が格子へ当たると、驚いたように首をすくめた。


 私は、その音に肩を強張らせた自分に気づいた。


 目の前にいる子は、私を襲っていない。角を向けてもいない。それなのに、私は先に身構えた。


 あの命令を、この子の前でも繰り返せるだろうか。


 『殺せる迷宮を作れ』


 口を開いたが、何も出なかった。


 子の手は、まだ格子の下に出ていた。私は器を、その手の届くところへ戻した。


 器を押した指が、私の指に触れた。


 温かかった。


 工房に帰った時、イカロスは床で眠っていた。


 昨日の絵が、作業台の上に移してあった。二枚の紙が重なったところだけ、石で押さえてある。


 私は息子を寝台へ運び、作業台へ戻った。


 新しい紙を広げる。


 中央に一つ、部屋を描いた。そこから通路を伸ばし、分岐を足す。王が求めた通り、迷い、引き返し、また同じ場所へ戻る道だった。中央の部屋には、さっき見た子が入る。


 筆を持つ手が止まった。


 この図面を持って宮殿へ行き、できないと言えばいい。理由を聞かれたら、あの子の手に触れたことを話せばいい。


 戸の向こうから、イカロスが寝返りを打つ音がした。


 私は紙へ目を落とした。


 中央から外へ、細い線をもう一本引いた。

 王へ見せる図面には載せない道。

 誰かが辿り着けば、子を連れて出られる道。


 断る代わりに、出口を描いた。


 その線を見て、ようやく息ができた。


 まだ何も造っていないのに、


 何かを償ったような気がした。


 私はその夜、


 迷宮の設計を始めた。


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