外伝 第18話 もう一つの鳴き声
牛の頭をした巨人が、泣いていた。
最深部の円形空間に、体長二メートルのミノタウロスがうずくまっていた。通路で捉えた大きな気配は、この個体だった。
鎖が三本、壁面に身体を繋ぎ止めている。胸元から漏れる淡い光に、顔の輪郭が浮かぶ。赤い目は光を失いかけ、濁った灰色に変わりつつある。
輪島が手を叩いた。反響音が返る。
「体長二メートル。……心臓音が聞こえる。弱い。不規則。……泣いてる。こいつ、泣いてる」
伊禮の【共鳴】が、ミノタウロスの感情を読み取った。
「怒り」ではなかった。
「殺意」でもなかった。
「悲しみ」と「寂しさ」
そして、「困惑」
なぜここにいるのか。なぜ繋がれているのか。
伊禮が言葉を当てるなら、そういう困惑だった。
誰にも呼ばれずにいるような寂しさが重なる。過去に何があったかまで、聞こえたわけではない。
伊禮は立ち尽くした。
これまで戦ったモンスターは「飢え」や「恐怖」で攻撃してきた。
だがこのミノタウロスは──攻撃の意思がない。ただ、うずくまって、泣いている。
「輪島。こいつを倒さないと、ダンジョンは崩壊しないんだよな」
「たぶん。案内放送は『最深部のコアを破壊せよ』と言ってた」
「あの胸の光が、コアなら……」
伊禮は持っていた棒を見た。
水の中で何度も振り、先端の木目が裂けている。それを足元へ横たえた。
「置くのか」
輪島が低く訊いた。
伊禮は頷いた。
「近づいてみる。……急に動いたら、教えてくれ」
輪島は棒を構えたまま、数歩後ろへ残った。
伊禮は一歩進み、止まり、また進む。
ミノタウロスが顔を上げた。濁った目が伊禮を見た。
その瞬間、【共鳴】に新しい感情が流れ込んできた。
「怯え」
近づくほどに怯えが強くなる。
伊禮は歩みを緩めた。自分たちを警戒しているのだろう。それでも、逃げようとはしなかった。
伊禮は手を伸ばした。ミノタウロスの額に、ゆっくりと手を置いた。
ミノタウロスの身体が震えた。怯えの感情が揺れ、その奥に、細い安堵が混じった。
伊禮の【共鳴】が、ミノタウロスの感情を全身で受け止めた。
寂しさの深さ。
暗闇の中に取り残されたような孤独。
伊禮自身が胸の奥へしまっていた寂しさまで、引き出されるようだった。
涙が、伊禮の頬を伝った。
「……ごめんな」
輪島の声が、静かな洞窟に響いた。
「伊禮。心臓音が変わった。安定してきてる。お前が触れたから、こいつの心臓が落ち着いたんだ」
「反響は?」
「温かい。……俺たちの時と、同じ温度だ」
伊禮はミノタウロスの額に手を置いたまま、胸の中央を見た。
そこに淡い光を放つ小さな結晶体が露出している。
コアだった。
「ごめん。……でも、壊さないと帰れない」
【共鳴】に返ったのは、怯えが薄れる気配だった。
これから何が起こるかまで、伊禮に分かったわけではない。
「いい」と言われたわけではない。
伊禮が額から手を離さないうちに、輪島は棒を床へ置いた。
道中で使い残した石をポケットから取り出し、伊禮の空いている手へそっと渡した。
伊禮は石片を結晶体へ打ち下ろした。
コアが砕けた。
ミノタウロスが、光の粒子に還っていく。
最後の瞬間、
伊禮の手の中に残った感情は──「ありがとう」ではなかった。
もっと原始的な、言葉以前の感情。
温かいものに触れた、ただそれだけの安堵。
光が消えた後、伊禮はしばらく動けなかった。
輪島が隣に座った。何も言わなかった。
ただ、反響を飛ばすのをやめて、静寂の中で伊禮の隣にいた。
長い沈黙の後、伊禮は呟いた。
「この寂しさ、ここだけのものじゃなかったのかもしれない」
「ここだけじゃない?」
「もっと遠くから、同じ声が重なってた気がする。……うまく言えないけど」
輪島は頷いた。
床に置いた棒を拾い、伊禮の分も引き寄せた。
二本を手の届くところへ揃えたまま、隣に座り直す。
帰還の光が降り始めても、伊禮が立つまでは急がせなかった。
* * *
与論島の空の下に帰ってきた二人は、赤崎鍾乳洞の出口で並んで立っていた。
輪島は入口の係の人に事情を話し、持ち帰った二本の棒を渡した。
伊禮は空になった右手を、しばらく開いたまま見ていた。
珊瑚の島の空が、夕焼けに染まっている。
海の音が聞こえる。
波の反響。
風の共鳴。
島の音が全身を包む。
輪島が夕焼けの海へ目を向けた。
「反響がなくても、お前の声は聴こえるよ」
伊禮は答えた。
「共鳴がなくても、お前の気持ちは分かるよ」
波の音だけが響いていた。
温かい反響だった。
外伝 第三章 後篇 赤崎鍾乳洞ダンジョン 了
輪島「最後まで読んでくれて、ありがとう」
伊禮「ありがとう。明るいところで言えて、よかったな」
輪島「ああ。今日は、もう手を叩かなくていいんだな」
伊禮「帰り道ぐらい、知ってるだろ」
輪島「知ってるけどさ。黙ってると、つい」
伊禮「じゃあ、喋れよ」
輪島「何を」
伊禮「なんでも。今日、風が強いとか」
輪島「……風、強いな」
伊禮「そのまんま言うのか」
輪島「お前が言ったんだろ」
伊禮「そうだけど」
輪島「海の方、少し歩くか」
伊禮「ああ」
輪島「読んでくれたみんなも、ここまでありがとう」
伊禮「おれたちの声を、最後まで聞いてくれてありがとう」
輪島「またな」
伊禮「また」
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『赤崎鍾乳洞』そして『鍾乳洞ダンジョン前篇・後篇』を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
何かが聞こえることと、何をすればいいか分かることは、同じではありません。たぶん。伊禮の隣に輪島が座ったところは、すぐに言葉を足さずに残したい場面でした。
二人が洞窟を出た後も、あの時間を覚えていていただけたらうれしいです。 鍾乳洞組の静かな二組の話に付き合ってくださって、ありがとうございました。
次は『迷宮設計者の告白』
迷宮を造った男の視点で、物語の始まりを辿ります。
彼が何を思い、何を選んだのか。
その話にも、お付き合いいただけたらうれしいです。




