外伝 第17話 恐怖の温度
中層で、本格的な戦闘が始まった。
ミルメクスの小型種。天井から落ちてくる蟻型モンスター。
赤崎鍾乳洞の通路は、二人が肩を並べるだけでいっぱいになる。
逃げ場がない。
輪島が持ってきた棒で床を打った。反響が返る。
上に三匹。足元にも一匹。声にする間に、天井の影が離れた。
「伊禮! 上、左から!」
伊禮の【共鳴】に、恐怖が熱く膨らむ気配が届いた。
来る。そう思って棒を上げたが、落ちてきた蟻は先端をすり抜け、右の袖へ顎をかけた。位置が分かっても、その場所へ手が届くとは限らない。
「壁へ当てろ!」
伊禮は肩を壁へ寄せ、袖の蟻を擦り落とした。
輪島が棒の端で水底へ押さえ、伊禮が足を下ろす。硬い殻がなかなか割れない。二度目で、ようやく光に変わった。
その間にも頭上で脚が鳴った。輪島が声を出し、返りを待つ。
今度は落下する水と蟻の音が重なり、数を言い直した。
「二匹……いや、壁を這うのもいる。狭い方へ戻ろう」
二人で同じ方を向き、一歩ずつ下がる。
伊禮は目の前の攻撃意思を拾い、輪島は頭上と後ろの空きを伝えた。
聞こえたことを短く言い合い、棒を出す順をずらした。
一匹が棒へ噛みついた。伊禮は引っ張り返さず、床へ先端を押しつけた。
輪島がポケットの石を当て、伊禮が棒で顎を外す。
二人がかりで一匹。その間に別の脚が脛を掠めた。
通路の狭い角まで戻って、ようやく正面から来る個体だけになった。
棒の届くところへ引きつけ、殻の下を突く。
水へ落ちたところを押さえる。
輪島が握り直すたび、木の先から細い破片が落ちた。
最後の一匹が光になっても、二人はしばらく棒を下ろせなかった。
伊禮は腕の痛みより、まだ消えない恐怖の気配に息を詰まらせていた。
蟻の群れを退けた後、洞窟の壁際で肩を並べて座った。
輪島が息を整えた。
「お前の能力で、モンスターの感情が分かるんだよな。さっきの蟻は、何を感じてた?」
「飢えと恐怖。……でも、一番強かったのは恐怖だった。おれたちが怖いんじゃない。この暗闇が怖いんだ。こいつらも、ここに閉じ込められてる」
輪島は黙って頷いた。
伊禮は続けた。
「モンスターの恐怖には温度がある。冷たい恐怖は逃走。熱い恐怖は攻撃。冷たいうちは近づかなければ襲ってこない。熱くなった瞬間──来る」
「恐怖に温度か。……面白いな」
「面白がるなよ。聴いてるこっちは胃が痛い」
輪島の笑いが途切れた。
「なあ、伊禮。……俺の感情も聞こえてるんだろ」
伊禮は黙った。
「聞こえてるなら言うけど。……俺も怖い。平気な顔してるけど、膝が震えてる」
伊禮は頷いた。
「知ってた。……最初から聞こえてた」
「バレてたか」
「恐怖の温度が低い。お前の恐怖は冷たい。……だからおれは安心してた。お前が冷静でいてくれてるから」
輪島は天井を見上げた。真っ暗な天井。何も見えない。だが音は返ってくる。
「怖いって言ってくれて、ありがとう」
伊禮は隣の気配に向かって礼を言った。
輪島の息が一拍止まった。
「なんでお礼?」
「隠されるより、楽だから。平気だって言う声と、聞こえてくる恐怖が違うと、すごく疲れる」
輪島はしばらく黙った。
「じゃあ、もう隠さない。……怖い。めっちゃ怖い。早く帰りたい」
伊禮は──笑った。
この暗闇の中で、初めて。
「……おれも」
* * *
下層に入ると、伊禮の【共鳴】が深化した。
ダンジョンの奥に進むほど、スキルの感度が上がっていく。以前はぼんやりとした感情の色だったものが、鮮明な輪郭を持ち始めた。モンスターの感情だけでなく、輪島の感情も、より詳細に聞こえるようになった。
輪島の感情の層が見えた。
表層:冷静。好奇心。音への集中。
中層:恐怖。暗闇への不安。家族への心配。
深層:──信頼。伊禮への、静かで深い信頼。
伊禮は聴こえすぎることに、居心地の悪さを感じ始めていた。
輪島の信頼は本物だ。
嘘がない。
ノイズがない。
透明で、温かい。
だが、人の心の奥底を、許可なく読み取ることは、覗きと何が違うのか。
島でも、人の顔色を察して口を閉じることはあった。だが、今は察する前に聞こえてしまう。輪島の声が届かない暗闇でも、その恐怖も信頼も流れ込んでくる。聞きたくなくても、止められない。
島で「勘がいい」と褒められた時には、こんなふうに聞こえるとは思ってもいなかった。
今は、呪いに近いとさえ感じる。
通路の奥で、輪島が足を止めた。
「伊禮。何か、気配があるか」
伊禮は意識を集中した。前方にモンスターの感情がある。
大きい。これまで遭った相手とは比較にならない。
「いる。デカい。……感情が複雑だ。怒りと恐怖と、あと……悲しみ?」
「モンスターが悲しんでるのか」
「分からない。でも、そう聞こえる」
輪島が手を叩いた。反響音が返ってくる。
「前方三十メートル。体長二メートル以上。……通路を塞いでる」
二人は互いの方へ向いた。顔は見えない。
だが伊禮には輪島の感情が「見えて」いたし、
輪島には伊禮の呼吸の反響が「聞こえて」いた。
伊禮は輪島の恐怖を指摘せず、自分の足を止めた。
「怖いな」
輪島の感情が、わずかに緩んだ。
「……ああ。怖い」
二人の恐怖が、重なった。【共鳴】の感覚の中で、二人の感情が同じ周波数で震えている。
怖い。
でも、同じ温度の恐怖を共有している。
一人で怖がるよりも、二人で怖がるほうが──少しだけ、温かい。
洞窟の最深部に近づくにつれ、輪島が奇妙なことを言い始めた。
「反響の温度が変わった」
「温度? 音に温度があるのか」
「物理的な温度じゃない。なんて言えばいいんだろう。反響音の質が変わったんだ。さっきまでは冷たい反響だった。硬い壁に当たって、硬い音が返ってくる。でも今は──柔らかい。温かい音が返ってくる」
「もしかして──おれたちの感情で、反響が変わってるのか?」
伊禮がそう言うと、輪島の声にひらめきが混じった。
伊禮には、その感情が弾むのが分かった。
「怖い時と、今とで、俺の声が違うのかもしれない」
「輪島」
「ん」
「反響が温かくなったのは、いつからだ」
輪島は少し考えた。
「お前が『怖い』って言った頃からかな。……いや、はっきりとは分からない」
「この先の音も、違う?」
「ああ。水滴じゃないものが、奥で鳴ってる」
二人は最深部への通路を進んだ。
暗闇の中、
見えないまま、
聴こえるまま。
温かい反響に包まれて。




