外伝 第16話 音の地図
鍾乳洞ダンジョン 後篇 赤崎鍾乳洞
与論島の空は、本土とは色が違う。
青、ではない。
青の上に光が乗っている。海からの照り返しが空にまで届き、空そのものが発光しているように見える。
沖縄に近い鹿児島最南端の島。
数千人が暮らす。全員が顔見知りのような小さな島で、伊禮と輪島は生まれ育った。
赤崎鍾乳洞は、島の東側にある小さな鍾乳洞だ。
観光客向けに整備されてはいるが、千仏鍾乳洞に比べれば規模は小さい。島の子供たちにとっては、肝試しの場所。伊禮と輪島も子供の頃に何度か入ったことがある。
──今日は、肝試しではなかった。
足元が揺れた瞬間、伊禮は観光客の感情が一斉に変化するのを感じた。
伊禮は昔から、人の声や表情のわずかな変化に敏感だった。
島の人々は「伊禮の子は勘がいい」と言った。だが、今は違う。姿の見えない相手の恐怖まで、声のように頭へ流れ込んでくる。勘で察する時とは、まるで違っていた。
ダンジョン化の赤紫の光が洞窟を染めた時、観光客たちの感情が──恐怖で真っ白に塗りつぶされた。
全員が同じ色の恐怖を放出し、伊禮の頭の中がノイズで埋め尽くされた。
光が収まると、観光客は消えていた。
残されたのは──伊禮と、輪島。二人だけ。
脳内に、案内放送が響いた。
『赤崎鍾乳洞をご利用いただき、ありがとうございます。収容上限は二名。最深部のコアを破壊せよ。帰還の出口は、その先に開かれます』
「伊禮。大丈夫か」
輪島の声が聞こえた。低い声。
島の男にしては穏やかな声だが、芯がある。
「大丈夫。……お前は?」
「平気。ていうか、これ、ニュースでやってたやつだろ。ダンジョンってやつ」
輪島は冷静だった。
島育ちの男は台風に慣れている。自然の脅威の前で騒いでも仕方がないことを、身体で知っている。
子供の頃、ここへ肝試しに来た時も、輪島だけは声の返りを待っていた。
低い声を出し、今度は高い声を出す。『同じ場所なのに違う』と言って、伊禮にもやらせた。
暗がりの奥を知りたくて、何度も耳を澄ませていた。
ステータス画面が浮かんだ。
『伊禮』
『クラス:共鳴者(Lv.1)』
『スキル:【共鳴】』
『輪島』
『クラス:反響者(Lv.1)』
『スキル:【反響】』
【共鳴】生物の感情を読み取る。
【反響】音の反響で空間を把握する。
二つとも、感覚系のスキル。
攻撃力はない。
防御力もない。
二人とも、戦う手段を持たない。
「……どうする」
「進むしかないだろ。案内放送、聞いたか。出口はダンジョンの奥にしかない」
二人はすぐには進まなかった。
倒れた観光通路の柵から、既に外れていた木の横棒を一本ずつ拾う。
輪島が体重をかけ、折れないところを確かめた。
乾いた音で床を打つと、水の音よりはっきり返ってきた。
「これなら、手を空けずに音を出せる」
伊禮も棒を持った。
濡れた床へ先を当て、右手の握る位置を決める。
輪島は足元の小石をいくつか拾い、上着のポケットへ分けて入れた。二人とも戦う力はない。それでも、何も持たずに暗闇へ入る気にはなれなかった。
輪島が洞窟の奥に向かって声を出した。「おーい」。短い声が洞窟に反響する。
輪島の目が細くなった。反響音を聞いている。
「……前方五十メートルまでは安全。通路は狭いけど、歩ける。五十メートル先で分岐。右は行き止まり。左は奥に続いてる」
「分かるのか、それ」
「音が教えてくれる。壁に当たって返ってくる音の形で、空間の形が見える」
輪島が先に踏み出し、伊禮は隣で耳を澄ませた。
水音の奥に、まだ生き物の気配はない。
二人は暗闇の中を歩き始めた。
足元の水が冷たい。珊瑚の島の地下に、どこまでも続く闇が広がっていた。
輪島の【反響】は、音で地図を描くスキルだった。
声を出す。
手を叩く。
足を踏み鳴らす。
音が壁に当たり、反射して返ってくる。
その反響音の遅延、音質、残響から、空間の形状を三次元的に把握する。
蝙蝠のエコーロケーションを、人間の知覚で行っているようなものだ。
「ここは広い。天井が高い。右に大きな空洞がある。上からの水流がある」
輪島がぽんぽんと手を叩き、返ってくる音を聞きながら歩く。
伊禮はその隣を歩いた。
伊禮の【共鳴】は、輪島の感情を感じ取っていた。
「集中」と「好奇心」
恐怖はほとんどない。
輪島は音の世界に没頭している。
新しい空間を音で「見る」ことが、純粋に楽しいのだ。
「楽しそうだな」
「分かるのか」
「感情が聞こえるから。お前、今めちゃくちゃ楽しんでるだろ」
輪島は一瞬黙り、それから苦笑した。
「……バレてたか。……悪い、不謹慎だよな。命がかかってるのに」
「いや。楽しめるなら、そのほうがいい」
伊禮は輪島の歩幅に合わせた。
感情を読む伊禮にとって、偽りのない感情は安心できる。
恐怖を隠して平静を装う人間より、素直に楽しんでいる人間のほうが、ノイズが少なかった。
輪島の手拍子が暗闇に消え、少し遅れて左の壁から返ってきた。
伊禮は、その反響の向こうに別の鼓動のような感情を拾った。
「前方に生き物の感情がある」
伊禮が足を止めた。声は低く、静かだった。
「何匹」
「一匹。……感情は……飢え。あと、恐怖」
「恐怖? こっちが怖いんじゃなくて、向こうが怖がってるのか」
「そう。怖がってる。暗闇の中で、何かに怯えてる」
輪島が手を叩いた。反響音が返ってくる。
「前方二十メートル。通路の真ん中に、体長一メートルくらいの生き物。……動いてない」
二人は慎重に近づいた。パイアの小型種だった。
暗闇に怯え、角を壁に押し付けてうずくまっている。
伊禮の【共鳴】が読み取る感情は──「飢え」と「恐怖」と「寂しさ」
「……かわいそうに。こいつも巻き込まれたんだな」
伊禮が呟いた。
輪島が石を投げて音を立て、パイアを追い払った。
パイアは怯えて走り去った。
倒す必要はなかった。
「お前の能力、便利だな。敵の気持ちが分かれば、無駄に戦わなくて済む」
「便利っていうか……聞こえすぎるんだよ。全部聞こえる。怖がってる声も、怒ってる声も。聞きたくなくても」
伊禮の声に、
微かな影が差した。
輪島は歩調を緩め、
伊禮が続きを話すのを待った。




