外伝 第15話 記録と記憶
最深部への最後の通路で、二人は休息をとった。
洞窟の暗闇を進み続けて、どれくらい経っただろう。時計は止まっている。スマホも圏外だ。時間の感覚は水滴の音でしか測れない。
ピチョン、ピチョン。
一定のリズムで落ちる水滴を数えて、おおよその時間を推測するしかない。
佐藤は壁にもたれて座り、膝を抱えていた。水に浸かった足が冷たい。身体の芯まで冷えている。
汐沢は向かいの壁にもたれ、目を閉じていた。時折、大きく息を吸い、長く吐く。
佐藤は声をかけず、呼吸が落ち着くのを待った。
沈黙が──今回は、長く続かなかった。
「佐藤さん」
汐沢の声だった。暗闇の中で、声だけが聞こえた。
「はい」
「さっき、記録しかできないって言ったよね」
「……はい」
「うちの【腐食】は、壊すことしかできない」
佐藤は顔を上げた。
暗がりの中で、汐沢の輪郭がかろうじて見える。
「壁を溶かす。岩を溶かす。モンスターの装甲を溶かす。全部──壊すだけ。作ることは何もできない。この鍾乳洞は、何万年もかけて水が作ったもの。うちはそれを数秒で壊してる」
汐沢の声は平坦だった。
いつもの無表情の声。だが、内容は無表情ではなかった。
「家で棚を組み直した時も、引っかかった板をまず外した。無理に押せば、もっと壊れるから。……外した板は、また使えた。でも、ここで溶かしたものは戻せない」
「壁画を溶かさなかったのは──あれは、誰かが作ったものだから。誰かが、何かを伝えたくて、壁に描いたもの。壊したら、もう誰にも伝わらなくなる。うちの【腐食】は、そういうものまで消してしまう」
佐藤は黙って聞いていた。【編纂】が汐沢の言葉を一語一語記録している。
「でも、佐藤さんの【編纂】は残すことができる」
「え?」
「うちが溶かしたものも、佐藤さんが記録すれば消えない。鍾乳石の形も、壁画も、この洞窟の構造も。全部、佐藤さんの中に残ってる」
佐藤は息を呑んだ。
汐沢は続けた。声が──ほんの少しだけ、柔らかくなった。
「記録しかできない、って言ったけど。『しか』じゃないと思う。記録は──残すこと。壊す人間と、残す人間。うちらはたぶん、そういうコンビなんだと思う」
沈黙が降りた。
水滴の音だけが響く。
佐藤は──泣いていた。
暗闇で良かったと思った。涙の跡を汐沢に見られなくて済む。
「……ありがとうございます、汐沢さん」
「お礼を言われることじゃない。事実を言っただけ」
汐沢はそう言って、目を閉じた。
しばらくすると、呼吸がゆっくりと深くなっていった。
佐藤は暗闇の中で、汐沢の寝息を【編纂】で記録した。呼吸の間隔。微かな寝息の音色。
記録する必要のないデータだ。
でも、記録した。残したかったから。
* * *
出発する前に、佐藤は二本の木を並べた。
汐沢の短い方は、もう顎の下へ届く長さがない。
佐藤は自分が杖にしていた長い方を渡し、短い方を受け取った。
長い木に巻いていたタオルを外し、手元の短い木の握りへ巻き直した。
汐沢は黙って木のしなりを確かめ、左手で握った。
最深部。
ミノタウロスは、壁画で見た姿そのままだった。
牛の頭。鎖。赤い目。だが、壁画よりも、小さかった。
壁画は大きさまで正確に描いていたわけではないのかもしれない。それでも体長三メートル。二人の人間から見れば、十分すぎるほど巨大だった。
汐沢が前に出た。
佐藤が後ろに下がる。
いつもの配置。
巨人が二人へ向き直ると鎖が張り、固定された石の縁から粉が落ちた。
だが、佐藤は今回は後ろに下がるだけではなかった。
「汐沢さん。壁画には、両腕と両脚、それに首の五本の鎖がありました。でも、目の前にあるのは三本です。左腕、右脚、首。……鎖が張るたびに、固定された石がきしんでいます。接合部を一箇所ずつ外せば、支えを崩せるかもしれません」
汐沢が振り返った。
初めて──微かに、目を見開いた。
「壁画から、そこまで読んだの」
「壁画の記録と、さっき鎖が動いた時の記録を比べました。壁へ戻るたび、同じ場所に力がかかっています」
佐藤の声は震えていた。
だが、引かなかった。
「ぼくが接合部を読みます。汐沢さん、届くところを教えてください」
汐沢は──笑った。
笑った、と言っていいのかどうか分からない。
口角が二ミリほど上がっただけの、無表情の延長線上にある変化。だが佐藤の【編纂】はそれを記録していた。「汐沢の表情変化──微笑」
「分かった。指示して」
ミノタウロスが咆哮した。
洞窟が揺れ、天井から水が滝のように落ちてくる。
汐沢が左腕の鎖へ近づくと、その腕が横へ振られた。
鎖が壁を打つ。
汐沢は下がった。手を伸ばす時間がない。
「佐藤さん。今の残ってる?」
佐藤は頷き、頭の中の記録を辿った。
腕が戻る時、鎖は壁へ沿って張る。
接合部の下だけ、巨人の拳が届かない窪みがある。
「一本目、左腕です。接合部は高さ二メートル。拳が戻ってから、壁の窪みへ入ってください」
汐沢が走った。
鎖が横を抜けるまで待ち、壁へ身を寄せて掌を当てる。石灰岩が溶け、接合部が外れた。
だが、自由になった左腕は、今までより大きく振れた。
「下!」
汐沢が屈んだ。
拳が頭上の壁を砕き、破片が左腕へ当たる。
木を取り落としかけ、肘を身体へ引きつけた。鎖を外せば動けなくなる、と考えていたわけではない。それでも、これほど腕が伸びるとは思わなかった。
佐藤は新しい軌道を記録した。最初の位置では間に合わない。指示する前に、伸びた腕の先まで見た。
「二本目は右脚。固定されているのは床です。蹴りの後に入って、触ったらすぐ離れてください」
一度目の蹴りでは、汐沢は出なかった。巨人の左手がまだ地面に残っている。
二度目。腕が上がり、右脚が前へ出た。その足が戻る先へ滑り込み、床へ掌をつける。
溶けた石へ水が流れ込み、接合部が傾いた。
鎖が抜ける。
汐沢は転がって離れたが、踵がすぐ後ろへ落ちた。水と石片が背中を打った。
首の鎖だけが残った。
ミノタウロスは足を広げ、その鎖を引いて背面の壁を軋ませた。高い接合部へ手を伸ばすには、あの足の脇を通らなければならない。
汐沢は一度、足掛かりを作りかけた。
だが、拳が壁を打ち、まだ薄く削っただけの一段が崩れた。登っていれば落とされていた。
「首の鎖が張る時、左へ身体が戻ります。その後なら」
佐藤が告げた。
汐沢は巨人が動くのを待ち、二段の足掛かりを溶かして作った。長い木を壁へ立てかけ、登る手を空ける。
一段、二段。
腕が戻る前に、接合部へ掌を押し当てた。
石が溶け、三本目の鎖が落ちた。
支えを失ったミノタウロスが前へ踏み出す。
汐沢は足掛かりから下り、木を掴んで身を引いた。
巨人は倒れず、振り向いた。
もう、鎖の届く範囲だけを避ければいい相手ではなかった。
「汐沢さん、こっちへ!」
佐藤の声が裏返った。
自分の前に、最初に拳が砕いた岩の窪みがある。
その先の床は、水に隠れて一段落ちていた。
さっき汐沢の足が沈んだ深さも、記録していた。
汐沢が走る。
巨人が追い、左足を低い床へ落とした。
体重が沈んだ一瞬に、汐沢は膝の外殻へ右の掌を当てた。
表面が崩れる。だが巨人は脚を引き、腐食は途中で途切れた。
汐沢は木の端を崩れた外殻へ差し込んだ。押し返す力で、左手が痺れる。
身体ごと持っていかれる前に手を放した。
木が折れ、残った先端が継ぎ目に挟まる。
巨人の左膝が伸びきらず、壁へ胸をぶつけた。
赤い光がひびの奥から漏れる。
「核、胸の中央に見えます!」
汐沢が踏み込むより早く、左腕が床を擦った。
汐沢は退き、佐藤も短い木を握ったまま壁へ寄る。
空振りした拳が、目の前の水を弾いた。
「もう一度、来る。……戻り際です。左手が胸から離れてから」
佐藤は声を絞った。
汐沢が頷く。
二人で拳が通るのを待った。
擦れた木が佐藤の掌を刺す。それでも、目を閉じなかった。
「今です!」
汐沢が右手をひびへ押し込んだ。
鉱物質の外殻が溶ける。掌の先に硬いものが残り、それも崩れ始めた。
巨人の肩が持ち上がる。
汐沢は足を引かず、指をもう少し奥へ伸ばした。
結晶体に光の亀裂が走った。
汐沢が手を抜いて退いた直後、胸から全身へ亀裂が広がり、ミノタウロスが粒子に散っていった。
静寂。
水滴の音だけが残った。
佐藤は肩で息をしていた。
敵へ手を伸ばしたのは汐沢だ。佐藤は一度も敵に触れていない。
だが、声が枯れていた。慣れない叫び声での指示で。
汐沢が佐藤を見た。
「いい指示だった」
佐藤は頷いた。言葉が出なかった。
帰還の光が降り注ぐ中、佐藤は最後にもう一度、洞窟を見回した。
【編纂】が全てを記録している。
壁画。
鍾乳石。
水の音。
汐沢が溶かした壁の跡。
溶かさなかった壁画。
ミノタウロスの鎖の形。
そして──
汐沢の無表情の奥にあった、
ほんの一瞬の微笑み。
* * *
地上に戻った二人は、鍾乳洞の出口で並んで立っていた。
佐藤は残った短い木を、出口の脇へ置いた。
掌には、タオル越しにもささくれの跡がついていた。
汐沢も、空いた左手をゆっくり開いた。
平尾台の草原に、夕陽が差していた。カルスト台地の白い石灰岩が、オレンジ色に染まっている。
地下にいた時間が嘘のように、空は広くて明るかった。
汐沢が佐藤の方を向いた。
「佐藤さん」
「はい」
「記録、ありがとう」
佐藤は目を見開いた。
汐沢の無表情が──今度は、はっきりと柔らかくなっていた。
微笑とも呼べないほどの変化。
でも、佐藤にはわかった。
「こちらこそ。溶かしてくれて、ありがとうございます」
二人は並んで、
夕陽の中を歩き始めた。
外伝 第三章 前篇 千仏鍾乳洞ダンジョン 了
佐藤「最後まで読んでくださって、ありがとうございます」
汐沢「ありがとうございます」
佐藤「……二人だと、静かなあとがきになりますね」
汐沢「無理に喋らなくていいと思う」
佐藤「でも、ここは何か、お話しする場所では」
汐沢「今、話してる」
佐藤「そうでした」
汐沢「佐藤さんの記録に、どう残るの」
佐藤「『二人で、読んでくれた方にお礼を言った』でしょうか」
汐沢「うん。それでいい」
佐藤「……あと、汐沢さんが少し笑いました」
汐沢「そこまで書く?」
佐藤「書かない方がいいですか」
汐沢「別に。見せる前に、一度読ませて」
佐藤「はい。では、最後の一行もお願いします」
汐沢「ここまで読んでくれて、ありがとう」
佐藤「ありがとうございます。……これは、そのまま残します」
──────────
『千仏鍾乳洞』までお付き合いいただき、ありがとうございます。
佐藤と汐沢は、会話の少ない二人です。相手の反応が分からなくて言葉を引っ込めたり、ずっと後になって返事をしたりします。それでも、聞いていなかったわけではない。そのことが伝わる話になっていたらうれしいです。
壁画を残した汐沢と、それを記録した佐藤。二人で洞窟を出るところまで読んでくださって、ありがとうございました。
次は後篇『赤崎鍾乳洞』
与論島で育った伊禮と輪島が、暗闇の奥へ進みます。生き物の感情と、壁から返る音。
二人に聞こえるものを追いながら、読んでいただけたらうれしいです。




