外伝 第14話 壁に残る線
洞窟の中層に入ると、敵の質が変わった。
ミルメクスの小型種。
巨大蟻の幼体のような、体長三十センチほどの蟻型モンスターが、天井からぽたぽたと落ちてくる。一匹は弱いが、数が多い。
二十匹、三十匹と群れで襲いかかる。
汐沢が【腐食】で応戦した。蟻の脚がかかる薄い岩の縁を溶かし、落ちてきた個体を左手の木で水へ払う。天井全体へ手を出せば、自分たちの上へ岩が落ちる。溶かすのは縁だけ。
その位置へ掌を合わせる間にも、次の蟻が肩の横をかすめた。
一匹が汐沢の脇を抜け、佐藤の足元へ落ちた。
佐藤は木の棒を突き出したが、狙いが外れて水を叩く。汐沢が振り返り、木で蟻を押さえ、鉱物質の顎へ掌を当てた。佐藤は足を引くことしかできなかった。
汐沢は前へ戻った。
左手の木は先端が裂け、短くなっていた。【腐食】を重ねるたび、右手を壁から離すまでの息が長くなる。
佐藤は──記録していた。
蟻の出現パターン。
天井の亀裂の位置。
群れの移動速度。
攻撃の間隔。
全てを正確に記録し、データベースに蓄積していく。
汐沢は何も訊いてこない。佐藤は記録された出現時刻を並べ、次も同じ間隔ならいつになるかを考えた。
伝える言葉を、頭の中で並べ直した。
「汐沢さん、右の壁から三分後に次の群れが来ます。出現パターンが一定なので」
佐藤が意を決して伝えると、汐沢は無表情のまま頷いた。
「分かった」
それだけだった。
三分後、予測通りに蟻の群れが現れた。
汐沢は先に右の壁へ向き直り、掌を当てる場所を確かめた。
群れを全て排除した後、汐沢は壁にもたれて座り込んだ。息が上がっている。【腐食】の連続使用は体力を消耗するらしい。
佐藤が水を差し出した。ペットボトルの水。
ダンジョン化前に売店で買ったものが、ポケットに残っていた。
汐沢は受け取り、一口飲んだ。
「ありがとう」
佐藤は汐沢の隣に座った。
狭い洞窟の通路。肩は触れない距離。水の音だけが響く。
「……ぼくは記録しかできない」
佐藤が呟いた。
独り言のつもりだったが、洞窟の中では音が響く。
「いつもそうなんです。大学でも、バイト先でも。観察して、メモして、報告書を書いて。でも自分で何かを変えたことは一度もない。見ているだけ。記録しているだけ。……結局、ぼくがいなくても、何も変わらない」
汐沢は何も言わなかった。
無表情のまま、ペットボトルの水を見つめていた。
沈黙が長く続いた。
水滴の音だけが、等間隔に落ちていた。
佐藤は立ち上がった。
「すみません。変なこと言いました。……行きましょう」
汐沢も立ち上がった。
二人は再び歩き始めた。
佐藤の背後で、汐沢が小さく呟いた。
聞こえるか聞こえないかの声で。
「変なことじゃない」
佐藤は振り返らなかった。
聞こえなかったふりをした。
聞こえなかったふりをする方が、
今は楽だった。
* * *
洞窟の最深部に近づくにつれ、壁面に変化が現れた。
天然の鍾乳石とは明らかに異質な、人工的な──いや、「意志的な」模様。壁面に、ところどころ途切れた線描画が描き残されていた。古代の壁画に見える。
佐藤は足を止めた。【編纂】が自動発動し、壁画の詳細を記録し始める。
描かれていたのは──迷宮の設計図だった。
上から見下ろした鳥瞰図。
複雑に入り組んだ通路。
中央に大きな空間があり、そこに、牛の頭を持つ巨大な人影が描かれている。
鎖が五本、その身体を床に繋ぎ止めている。
「ミノタウロス……」
佐藤は呟いた。
ギリシャ神話の怪物。迷宮に閉じ込められた、王の息子。
壁画は設計図だけではなかった。
別の区画には、翼を持つ二人の人間が描かれていた。
大きい方が──少し小さい方の手を引いて、空へ向かっている。
そしてその隣に、翼が溶け、手が離れ、小さい方の人影が落ちていく場面。
ダイダロスとイカロス。
蝋の翼で脱出し、息子が太陽に近づきすぎて墜落した物語。
佐藤は壁画の全てを【編纂】で記録した。線の太さ、色の濃淡、途切れた輪郭。見えるものは、細部まで残っている。だが、記録された形以上のものを、佐藤は感じていた。
線を追うと、描いた人間の手の震えまで伝わる気がした。線が微かに揺れている。特にミノタウロスの鎖を描いた部分。鎖の一本一本が、正確であろうとしながら、どこか躊躇うように揺れている。
──鎖をかけた人間が、自分のかけた鎖を描いたのだろうか。
汐沢が佐藤の隣に立っていた。
壁画を見ていた。無表情。だが、佐藤はここまでの道中で、汐沢の無表情の微かな変化を読み取れるようになりつつあった。
今の汐沢の無表情は、「考えている」無表情だった。
「……これは」
汐沢が壁に手を伸ばした。【腐食】の手。触れれば溶ける手。
佐藤の心臓が跳ねた。
壁画が──溶かされる?
汐沢の指先が、壁画の表面に触れた。
──何も起きなかった。
汐沢は【腐食】を発動しなかった。
指先が壁画に触れ、ゆっくりとミノタウロスの輪郭をなぞった。
鎖をなぞった。
翼をなぞった。
墜落する少年をなぞった。
「……これは、溶かさない」
汐沢の声が──初めて、揺れていた。
佐藤は汐沢を見た。
無表情。でも、指先だけが──壁画の上で、震えていた。
「なぜ」
佐藤が訊いた。
なぜ溶かさないのか。通路を塞ぐ壁は何の躊躇もなく溶かすのに、この壁画だけは溶かさない。
汐沢は答えなかった。
指先を壁画から離し、背を向けた。
「先に進む」
佐藤は壁画をもう一度見た。【編纂】は全てを記録済みだ。
設計図も、
ミノタウロスも、
翼も、
墜落も。
そして、汐沢が壁画に触れた時の指先の震えも。
壁画は残った。
汐沢が溶かさなかったから。
佐藤はそれを記録した。
「汐沢が壁画だけは溶かさなかった」という事実を。
理由は分からない。
それでも残す。
それだけが、
今の佐藤にできることだから。




