外伝 第13話 水の音しかしない
鍾乳洞ダンジョン 前篇 千仏鍾乳洞
千仏鍾乳洞は、膝まで水に浸かって歩く洞窟だった。
北九州市小倉南区。平尾台のカルスト台地の地下に広がる天然の鍾乳洞。
観光名所として整備されてはいるが、奥には人がすれ違うのも難しい通路があり、足元を地下水が流れている。照明が途切れた先は、完全な暗闇だ。
佐藤は、その暗闇の入り口に立っていた。自分のことを「ぼく」と呼ぶ女子大学生だった。大学の研究室でもバイト先でも、穏やかな敬語で話す。
今は、その声まで震えそうだった。
濡れた黒髪を耳にかけ、ゆっくり息を吐く。
観光客はもういなかった。さっきまで一緒にいたツアーの十二人は、赤紫の光に弾かれて消えた。
残されたのは、佐藤と──もう一人。
赤紫の光だけが、壁に薄く残っていた。
汐沢。
同じツアーにいた女性。年齢は佐藤と同じくらいか、少し若いか。黒髪のボブカット。無表情。ダンジョン化の瞬間にも、悲鳴一つ上げなかった。
「大丈夫ですか」
佐藤が声をかけた。
汐沢は佐藤を見た。暗がりの中で、無表情が佐藤の顔を値踏みするように見つめる。
「大丈夫。……あなたは?」
「ぼくも大丈夫です」
会話が終わった。二人の間に沈黙が降りて、洞窟の中に水滴が落ちる音だけが響いた。
ピチョン。ピチョン。規則的な水音が、心臓の音に重なる。
脳内に案内放送が響いた。
『千仏鍾乳洞をご利用いただき、ありがとうございます。通常の収容上限は十四名ですが、自然型ダンジョンでは地形条件により収容人数が制限されます。本ダンジョンの収容人数は──二名です。お気をつけて』
二名。
たった二人。都市型ダンジョンの十四名より、ずっと少ない。
佐藤が頼れる相手は、目の前の汐沢一人だけだった。
ステータス画面が浮かんだ。
『佐藤』
『クラス:記録士(Lv.1)』
『スキル:【編纂】』
【編纂】
見たもの、触れたもの、聞いたものを正確に記録する能力。記録された情報は、佐藤の脳内にデータベースとして蓄積される。テキスト、画像、音声。全てが完全な精度で保存される。
汐沢のスキルは【腐食】
触れた無機物を溶解する能力。壁でも岩でも金属でも、汐沢の手が触れれば溶ける。
佐藤は濡れた靴を引きずりながら、先を歩く汐沢の背を見た。自分の記録に、まだ使い道は見つからない。
歩き出す前に、汐沢は倒れた観光用の案内板へ戻った。外れていた木枠を持ち上げ、割れ目へ足をかけて二本に分ける。長い方を佐藤へ差し出した。
「杖に。先を、触らないで」
木の先端は裂けていた。佐藤は握る場所のささくれをハンドタオルで包み、水底へ突いた。見えない石の間へ沈み、足を置こうとしていた窪みが分かる。
汐沢は短い方を左手へ持ち、右の掌を空けた。
洞窟の奥に進み始めた。
水が膝を打ち、足元が滑る。佐藤はスニーカーの中に水が浸み込む感触に顔をしかめたが、汐沢は無表情のまま歩いている。冷たくないのだろうか。
冷たくても顔に出さないタイプなのだろうか。
会話がない。
佐藤は【編纂】を無意識に発動していた。
洞窟の壁面の質感。水温(推定十二度)
天井から垂れる鍾乳石の形状。
記録を取る間だけ、冷えた足から意識をそらせた。
ピチョン。
水滴が落ちた。数万年かけて一滴ずつ落ち、鍾乳石を育ててきた水滴。
佐藤はその一滴を【編纂】で記録した。落ちてくる軌道、水滴の大きさ、水面に広がる小さな波紋。
水の音だけが、答えの代わりに響いていた。
最初の壁は、洞窟の通路を完全に塞いでいた。
天然の鍾乳洞が歪曲され、本来なかった場所に石壁が生まれている。ダンジョン化による構造変化。迂回路は天井まで水没していて、進めない。
汐沢が壁に近づいた。
「下がって」
短い指示。
佐藤が二歩下がると、汐沢は右手を壁面に押し当てた。
──ジュウ、という音がした。
汐沢の掌に触れた石壁が、飴のように溶け始めた。石灰岩が液状化し、ぐずぐずと崩れ落ちる。壁に巻き込まれた鍾乳石も、数秒で形を失っていく。
【腐食】無機物溶解。
壁を溶かし、道を切り開く。効率的で、確実で──残酷だった。
佐藤は【編纂】で、溶けていく壁の様子を記録していた。
石灰岩の溶解速度。
変色のパターン。
内部構造の変化。
完璧なデータ。
だが、佐藤の胸は痛んでいた。
この鍾乳石は、数万年の歳月をかけて一滴ずつ育ってきた。水滴が落ちるたびに、ほんの少しずつ石灰質が堆積し、気の遠くなるような時間を経て、この形になった。
それが一瞬で溶ける。
「……すごい能力ですね」
佐藤が言うと、汐沢は無表情のまま答えた。
「道がなければ作る。それだけ」
汐沢は振り返らなかった。
壁を溶かし、道を作り、次の壁に向かう。迷いがない。鍾乳洞の歴史に対する感傷もない。
あるいは、感傷を見せないだけかもしれない。佐藤の【編纂】は、汐沢の無表情の奥を記録できない。表情がなければ、記録するデータもない。
三つ目の壁を溶かした時、通路の奥から気配がした。
パイア。猪型の化け物。
洞窟の狭い通路に一匹、赤い目を光らせてこちらを見つめている。
汐沢は短い木を左手に構えた。
パイアが突進してくる。横へ逃げる幅はない。木を角へ斜めに当て、鼻先を壁へずらす。衝撃で肘が跳ね上がり、木の縁が欠けた。
壁を擦った角の根元へ、右の掌を当てた。ジュウ。鉱物質の角が溶ける。だが、すぐ下の牙が上がってくる。
汐沢は手を引き、背中を壁へ押しつけた。牙がズボンの膝を裂いた。
【腐食】は無機物を溶かす。角と牙は鉱物質だが、触れていられるのは一瞬だった。
汐沢は後退し、狭まった壁の間へパイアの頭を誘った。突進が詰まるたび、角へ、牙の根元へ、短く掌を当てて離す。
最後の牙が崩れ、パイアのHPが尽きた。光の粒子が水面へ散る。
汐沢は木を握った左手を一度開き、また握った。
佐藤は杖を握ったまま、光の消えた水面を見ていた。
記録には突進の速さも、角や牙が崩れた箇所も残っている。木を持つ手は、結局、一度も動かなかった。
「……ぼくは、何もできませんでした」
佐藤が呟いた。
汐沢は振り返らなかった。
「記録は、した?」
「はい」
「なら、それでいい」
汐沢は歩き始めた。
佐藤は、汐沢の背中を見つめた。
小柄な背中。黒髪のボブカットが揺れている。
その背中に何を読み取ればいいのか、佐藤には分からなかった。
水滴が落ちた。
ピチョン。
佐藤はその音を記録し、
汐沢の後を追った。




