外伝 第12話 お願いがある
ミノタウロスは、巨大だった。
天井に頭がつきそうなほどの体躯。牛の頭に人間の身体。灰色がかった筋肉の表面に、赤紫色の光が脈打っている。
太い鎖が四肢と首に巻きついているが、鎖は床にも壁にも繋がっていない。振り上げた腕と一緒に揺れている。
赤い目が、ダイたち三人を捉えた。
ダイは棒を持つ手を止めた。
タロスよりも大きな腕が、鎖を鳴らして上がった。
その長さを測り、手元の棒を見下ろした。
正面に立ち、二人を左右へ回す号令をかけようとした。慣れた配置を思い浮かべ、口を開きかけた。
だが、その前にテツとマーサへ目を向けた。
「テツ。マーサ。頼む。俺が間合いを見る。触れられそうなところを、一緒に探してくれ。……お願いだ」
テツが巨人の脚と、壁際の空きを見比べた。
「拳が床に落ちたら、脚へ行く。お前は殴られに行くな。オレが戻る場所を空けとけ」
「わたしが腕の流れを見る。二発目が来る前に、二人とも離れて」
ダイは頷いた。
攻撃を受けて足止めするつもりで組んだ配置を、頭の中で崩した。
テツは小さく笑った。
今度はダイにも、口角が上がったのがはっきり見えた。その笑顔に、棒を握る手がわずかに緩んだ。
マーサが泣きながら叫んだ。
「おっけー! 任せとき!」
ミノタウロスが咆哮すると、地面が震え、壁に亀裂が走った。
三人は棒を構えた。
テツの一本は曲がり、先端が潰れていた。
マーサは震える手で、短い棒を握り直した。
ダイは正面へ出た。【測距】が告げる拳までの距離から、腕の届く外へ退こうとした。
その瞬間、巨人が半歩踏み込み、数値が一気に縮まった。ダイは床へ飛び、拳の下を転がった。背中へ石片が降った。
「テツ、待て! まだ来る!」
マーサの声で、走り出しかけたテツが止まる。
空いた方の拳が壁を薙いだ。
さっきまでテツが見ていた道が、瓦礫で塞がれた。
ダイは起き上がり、巨人の腕と脚を測り直した。踏み込みによって、退こうとした場所まで拳が届いていた。
最初に測った間合いだけでは避けられないと分かり、戻る道も確かめた。
「右の壁際、通れるか」
「一人ずつなら。……先に、こっちへ腕を振らせてくれ」テツが言った。
ダイは頷き、棒で床を叩いた。
拳が来る。
さっきより一歩早く退き、巨人を壁際まで引いた。拳が床へ落ちた轟音の中で、テツが反対側へ走る。
ふくらはぎへ一度触れ、テツはすぐに離れた。【測質】
追ってきた踵を棒でそらそうとし、腕ごと弾かれる。片膝をついたテツの肩を、マーサが引いた。
「表皮は鉄鋼並み。膝の裏だけ、薄い。だが棒を振る隙間がない」
テツが肩で息をした。
ダイは棒を握り直し、先ほど見た膝裏へ足を向けかけた。だが、二人の息はまだ整っていなかった。
ダイは足を戻し、テツが顔を上げるのを待った。
「待つ。……次にどう崩すか、一緒に考えてくれ」
マーサが巨人の足元を見た。倒れた石柱の根元が、通路側へ低く突き出している。
「右へ向き直る時、足が一回止まる。あの石の向こうへ、左足を出させられん?」
「オレが膝裏へ棒を入れる。ダイは押し込むな。体重がかかるまで待て」
ダイは床の突起と、左足が着く位置を測った。
半歩ずつ退き、拳の届く線を二度外した。足元を確かめるたびに顔を上げ、巨人の腕の動きも追った。
一度目は、巨人が石の手前で止まった。
テツも出なかった。
ダイは急かす言葉を飲み込み、もう一度、壁沿いへ動いた。
「そっち! 今、左が浮く!」
マーサの声とともに、巨人が石を跨いだ。
テツが膝裏へ棒を差し込む。まだ動いている足へ手を近づけ、外殻に引っかかった先端の位置を直した。
ダイはテツの隣へ回った。
「押してくれ!」
二人で棒を下げた。左足へ体重が乗り、曲がった棒が低い突起に当たる。
手の力では動かなかった膝裏の薄い外殻が、巨人自身の重さで裂けた。棒もさらに曲がり、抜けなくなる。
「放せ!」
ダイとテツは棒から手を離した。左膝が折れ、巨人が床へ片手をつく。
だが、もう片方の腕が戻ってくる。
マーサがその腕を指し、三人は膝の外へ退いた。
テツが膝の割れ目へ触れた。すぐに手を引く。
「奥に核。外から十五センチ。外殻が動くから、今は棒が入らない」
ダイは残った自分の棒の端を、割れ目へ向けた。届く長さはある。
だが差し込む前に、核を覆う欠片が閉じる。金属が噛まれ、手首を捻られた。棒を引き抜いた。
「三拍目だけ開く。中の流れが、そこで押し返しとる」
マーサが片膝をついた。
片手を棒から離し、胸の前で小さく拍子を取る。テツは曲がった自分の棒を引き、噛み込んだ外殻の向きを少しだけずらした。
巨人の拳が再び上がる。
ダイはまだ差し込まなかった。マーサの指を見た。
「二、三──今!」
ダイは開いた隙間へ、棒の端を突き入れた。
先端は届いたが、核は砕けなかった。
テツが横から棒を支え、ダイは床を蹴って押した。
赤い結晶に、細いひびが走った。
「抜かんで!」
マーサが自分の短い棒で、二人が支える棒の後端を打った。
衝撃が腕を通り、奥へ抜けた。
結晶体が割れる音。
頭上の拳がほどけ、光の粒子が三人の背中へ降ってきた。
ダイは棒を離して、床へ両手をついた。
二人の息が、すぐ隣で聞こえた。
静寂。
三人は肩で息をしながら、
最後の光が消えていくのを見つめていた。
マーサが、地面にへたり込んだ。
「ダイくん。テツくん。……声、出る?」
「出る。お前の声も、聞こえてる」
テツが壁に寄りかかった。無表情が──ほんの少しだけ、ほぐれていた。
ダイは見上げた。天井から赤紫の光が消え、代わりに白い光が降り注いでいた。
照らされた二人の顔へ、視線を戻した。
「テツ。マーサ」
「ん」
「なに?」
「ありがとう」
マーサが大声で泣き始めた。
テツは何も言わず、紙ナプキンを一枚差し出した。
マーサが受け取って鼻をかんだ。
「きったなっ」とテツが声を上げ、マーサが泣き笑いになった。
立ち上がる時、テツが床に残った曲がった棒を拾った。
ダイも自分の一本を取り、マーサは短い棒を抱えた。
白い光が足元へ広がっても、ダイは棒を握り続けていた。
マーサの短い棒が、ダイの手首に触れた。
その感触を残したまま、足元の石床が白くほどけた。
* * *
名古屋駅の改札口に、三人は立っていた。
帰還したダイが最初に見たのは、救急隊員に担架で運ばれる柳だった。
胸が上下しているのを確かめ、ダイは棒を握ったまま駆け寄ろうとした。
「白石さんは。中島さんは。相馬は」
駅員に肩を止められ、ダイはそこで初めて、自分がまだ棒を握っていることに気づいた。
「十一人とも、呼吸はあります。今、救急隊が診ています。ここで待っていてください」
ダイは名前を呼ぶのをやめた。
救急隊員が運ぶ先へ目を向けたまま、頷いた。
ダイたちは持ち帰った棒を床へ並べた。曲がったもの、先端の潰れたもの。手を放すと、指がすぐには開かなかった。
テツがダイの掌を見てから、駅員へ事情を話した。
「ダイくん」
マーサが、目を腫らしたままダイの横に並んだ。
泣きすぎた顔を袖で拭い、ダイを見上げた。
「なに」
「名前、呼んでくれてありがとう」
ダイは頷いた。うまく言葉にできなかった。
テツが近くの自販機でコーヒーを三つ買ってきた。
ブラックが二つと、カフェオレが一つ。
カフェオレをマーサに渡す。
「ブラック飲めんの、バレとるやん」
「バレてるだろうな」
ダイはブラックコーヒーを受け取り、一口飲んだ。
いつもの苦さを舌に感じ、少しずつ缶を傾けた。
缶コーヒーを飲みながら、ダイは静かに名前を呟き始めた。
「白石さん。中島さん。柳。相馬。藤原さん。田辺さん。根岸。鶴見さん。堺。岩田さん。宮本さん」
十一人の名前。
一人ずつ。
テツが隣で、黙って聞いていた。
マーサはカフェオレを両手で包みながら、一人ずつの名前に小さく頷いていた。
「十一人。全員、俺の命令で動いてくれた。俺の判断を信じてくれた。名前を呼ばなくなった後も」
ダイの声が震えた。号令をかけていた時のようには続かず、十一人の顔を思い浮かべるたびに途切れた。
マーサがポケットから、ピンク色の小さなメモ帳を取り出した。開かれたページをダイが覗くと、十一人の名前が丁寧な字で並んでいた。
一人ずつ、名前の横に花の絵が描かれていた。
「いつの間に」
「休憩の時に、こっそり。……忘れんように」
マーサは笑った。泣きながら。
名古屋の空は、オレンジ色に染まっていた。
頭上に天井がないことを確かめるように、ダイはしばらくその色を見ていた。
ダイは十一人の名前をもう一度、心の中で呼んだ。
缶の縁に口をつけたが、もう中身は残っていなかった。
十一人はそのまま各地の病院へ搬送された。
後日、全員が目を覚ましたと連絡が来た。光になって消えた者は、迷宮の外へ退避させられていたのだ。
だが、ダンジョン化に巻き込まれてから退避するまでの記憶は、誰にも残っていなかった。
中で起きたことを覚えていたのは、ダイたち三人だけだった。
* * *
翌々月、四月。
ダイとテツは高校二年、マーサは中学三年になっていた。
修学旅行で東京へ向かう新幹線の中で、ダイはイヤホンをつけ、窓の外を眺めていた。周りではクラスメートが騒ぎ、隣ではテツが文庫本を読んでいた。
別の中学校の修学旅行に来たマーサも、偶然同じ列車に乗っていた。翌朝は、どちらの学校も東京駅に集合してから移動する予定で、三人は集合前に少しだけ会う約束をしていた。
ダイのスマホに『東京楽しみー!!!!』というメッセージが届いた。
絵文字が五個も続き、ダイは画面をテツに見せて、イヤホンを片方だけ外した。
新幹線が東京駅に滑り込んだ。午後のホームに降り立った時、足元が微かに揺れた。ダイとテツは立ち止まったが、すぐに揺れは収まった。
その日は、教師に呼ばれて駅を出た。
マーサとはメッセージを交わすだけだった。
翌朝、集合までの短い自由時間に、約束どおり合流した。土産を見ながら、それぞれの学校の集合場所へ向かって東京駅の地下を歩いていた。
ダイの右手が、チリッと痺れた。
「テツ」
「ああ。オレも」
テツも右手を見下ろしていた。
二人が顔を見合わせると、消えたはずのステータス画面が、手の甲の上で淡く明滅した。
ダイは足を止めた。
二月、名古屋駅の地下街で足元が揺れた時と、同じ感覚だった。
──三千二百メートル先の出口を目指した旅は終わり、季節がひとつ進んだ。
次の試験が、
始まろうとしていた。
外伝 第二章 名駅ダンジョン 了
ダイ「最後まで読んでくれて、ありがとう。……で、あとがきって何を話すんだ」
マーサ「今それ聞くん?」
テツ「決めずに聞けたなら、進歩だろ」
ダイ「お前な」
マーサ「わたし、お礼言いたい。ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
ダイ「……そうだな」
テツ「それで十分じゃないか」
ダイ「いや、俺からも。あの中じゃ、前ばっかり見てたからさ。読んでる人には、隣の二人も見えてたんだろうな」
マーサ「わたし、けっこう喋っとったしね」
テツ「オレは、喋ってない時もいた」
ダイ「知ってる。今なら、もう少し聞けると思う」
マーサ「じゃあ、次に三人で寄る店、わたしが決めていい?」
ダイ「いいぞ。どこだ」
マーサ「甘いのあるとこ。ブラックコーヒーはなしで」
テツ「オレの分まで決めるな」
マーサ「わたしの分だけ! テツくんはブラックでええやん」
ダイ「……はは。じゃあ、一緒に行ってくれ」
マーサ「うん。そういうお願いなら、何回でも聞くよ」
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『名駅ダンジョン』を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
ダイは、最初から誰かを傷つけたい人間ではありません。ただ、必死に出口を目指すうちに、名前より役割を呼ぶようになっていました。テツとマーサが、その隣で何を見ていたのかも、一緒に読んでいただけたらうれしいです。
帰ってきたから、それまでの判断が全部正しかったことになるわけではない。ダイが十一人の名前を呼ぶところまで、見届けてくださってありがとうございました。
次は『鍾乳洞ダンジョン』
前篇『千仏鍾乳洞』
舞台は北九州の洞窟へ。
記録を残す佐藤と、岩を溶かす汐沢が、二人きりで出口を目指します。




