第9話 地下迷宮の静寂と、カビ臭い休憩
渋谷駅の地下コンコースは完全な異空間だった。電源が落ち、非常口の緑色のランプだけが等間隔で光っている。空調の止まった地下に、カビの匂いと鉄錆の冷気が淀んでいる。
「暗いし、カビ臭いし、ほんと無理」
健一のマップに従い、元・駅長室の小部屋に滑り込んだ。鉄扉をロックした瞬間、莉奈は糸が切れたように壁際に座り込んだ。
「はい、これ」
健一がリュックからレモン味のタブレット菓子を放り投げた。
「別に、腹減ってないし」
そっぽを向きながら、二、三粒まとめて口に放り込んだ。酸味と人工的な甘さが乾いた口内に広がる。
「普通。でも、貰っといてあげる」
ケースをポケットにねじ込んだ時、一瞬だけ胸の奥がチクッとした。
誰かが黙って食べ物を差し出す仕草。
父親がそうだった。何も言わず、莉奈の机にチョコレートを置いて去る。「勉強頑張れ」とも「食べろ」とも言わない。ただ置いて、背中を向ける。
いつも同じ銘柄だった。コンビニで売っている、赤い包装の板チョコ。莉奈が好きだと言った覚えはない。父が好きだったのかもしれない。訊いたことがないから分からない。
中学一年の冬、一度だけ「ありがとう」と言おうとしたことがある。父はもう廊下に出ていた。背中が遠かった。莉奈は口を閉じて、チョコレートの包装を破いた。甘かった。それだけだった。
それが最後の一枚になった。父が家を出たのは、その二ヶ月後だ。
不器用な優しさ。──いや、優しさなのかどうかも分からない。何も言わずに置いていく人間は、何も言わずに出ていく人間でもある。
莉奈はレモンのタブレットを一粒、舌の上で転がした。酸っぱい。チョコレートとは似ても似つかない味だ。
それなのに、胸の奥の同じ場所が、同じようにチクッとした。
痛みは、すぐに消えた。健一は父親じゃない。当たり前だ。
非常灯の薄暗い光の中で、莉奈の口が無意識に動いた。
「ねえ、ケンイチ」
「え? 今、呼び捨てにした?」
「はぁ? してないけど」
莉奈は否定したが、耳の先が熱くなった。幼馴染の名前が、ただの記号からもう少し近い何かに変わりつつある。
健一はリュックから渋谷の地下鉄構内図を取り出し、【解析】のマップ情報を書き込み始めた。魔力の流れの矢印を辿ると、全てがある一点──ハチ公口に向かっている。地図の隅に小さく『ハチ公口→起点?』と書き加えた。
「さっきの最短ルートの罠、偶然じゃないっしょ」
「うん。モンスターが密集しているルートほど手前にトラップがある。罠で足止めして、モンスターに食わせる二段構え。──だから、この先は僕が【解析】で床をスキャンして、安全なタイルだけを指示する。莉奈はその通りに動く。信じてくれる?」
「当たり前っしょ」
健一がメモ帳からページを半分にちぎった。小さな紙片。これを分岐点ごとに壁際に置いていく。テセウスがアリアドネの糸で迷宮から帰ったように──糸の代わりに、紙。神話の英雄には程遠い、オタクなりの保険。
「もし僕が先にやられても、莉奈がこれを見れば──」
「縁起でもないこと言わないで。寝言は寝て言いなさいよ」
莉奈は遮ったが、健一がペンを走らせる手は止まらなかった。
気弱なオタク少年とは少し違う横顔。
何か重いものを飲み込んで、それでも口には出さないと決めた表情




