第8話 鉄の壁と『おあいこ』の絆
ザザザザァッ!!
コンクリートの床を滑る摩擦音と共に、莉奈の身体がシャッターの隙間へ滑り込んだ。背中にタロスの太い指先が触れたような気がしたが、気にしてる余裕はない。
「健一、閉めてッ!!」
「わかってる……!!」
莉奈が転がり込んだ直後、健一が制御盤のレバーを全力で引き下ろした。電子ロックの解除音が鳴り響き、途中で停止していた分厚い防火シャッターが、自重に任せて一気に落下してくる。
ガァァァァァンッ!!
鼓膜を突き破るような凄まじい轟音と共に、鉄の壁が閉まりきった。同時に、外から差し込んでいた紫色の不気味な光が遮断され、周囲は非常灯の薄暗い緑色だけが頼りの、濃密な暗闇に包まれた。
──ドスッ!! ドスンドスンッ!!!
直後、シャッターの向こう側から、地鳴りのような打撃音が響き始めた。獲物を逃したタロスたちが、怒り狂って凶悪な武器や拳で鉄の壁を殴りつけているのだ。シャッターが悲鳴のように軋み、細かい埃がパラパラと天井から落ちてくる。
「っ」
莉奈は床に倒れ込んだまま、武器を握り直した。もしここを破られたら、今度こそ終わりだ。あのゲージはほぼ空っぽだ。もう、指先に火花を散らすことすらできない。
だが、数十秒の心臓に悪い連打が続いた後、やがて打撃音は遠ざかっていった。どうやら、規格外の怪物たちをもってしても、現代の地下鉄を水没から守るための分厚い防水壁をぶち破ることはできなかったらしい。
「行った、みたいだね」
暗闇の中で、健一の掠れた声がした。
「……」
莉奈は答えず、冷たいコンクリートの床に仰向けのまま大の字になり、荒い呼吸を繰り返した。全身の筋肉が悲鳴を上げている。心臓は肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打ち、肺は酸素を求めてひゅーひゅーと情けない音を立てていた。
「死ぬかと思った」
ポツリと、無意識のうちに本音が漏れた。
強がる余裕すらなかった。あのままあと数秒遅れていたら、自分の身体はタロスの拳で肉塊に変わっていただろう。それを想像するだけで、奥歯がカチカチと鳴った。
「莉奈……ありがとう。本当に」
少し離れた場所から、健一の声が聞こえた。非常灯の緑色の光に照らされた彼の顔は、埃と汗でぐちゃぐちゃだった。黒縁メガネの奥の瞳は濡れており、必死に泣くのを堪えているのが分かった。
「アンタ、マジで泣き虫だよね」
莉奈はゆっくりと上半身を起こし、膝を抱えた。
「泣いてないよ。ただ、僕がもっと上手くやれてたら、莉奈にこんな危険な思いをさせずに済んだのにって……」
「バカじゃないの」
莉奈は、わざと冷たい声を出して、そっぽを向いた。
「アンタのナビがなきゃ、そもそもあの車の場所も分かんなかったし、シャッターだって閉められなかった。礼を言われる筋合いはないわよ」
薄暗い階段の静寂の中で、莉奈は自分の震える両手をギュッと握りしめた。
「アンタがシャッターを開けたから、アタシは助かったんでしょ。おあいこよ」
「おあいこ?」
「そう。だから、もう二度と『僕を囮にして』なんてふざけたこと言わないでよね。マジでムカつくから」
莉奈の言葉に、健一は一瞬だけ目を丸くし、やがて小さく吹き出した。
「ふふっ……わかった。もう言わない。絶対に」
「笑ってんじゃないわよ、キモい」
莉奈は軽く舌打ちしながら、立ち上がった。『おあいこ』そんな言葉が自分から出てきたことに、莉奈自身が少しだけ驚いていた。
その事実を、不思議と嫌だとは思わなかった。
「さてと。ここは地下鉄の入り口の階段だっけ」
莉奈はパイプを拾い上げ、暗闘の奥へと続く階段を見下ろした。カビの匂いと、生ぬるい風が下から吹き上げてくる。見慣れたはずの駅の構内は、もう『ダンジョン』の冷気をまとっていた。
ふと、健一が莉奈のステータスを覗き込んで首を傾げた。
「莉奈、HPとMPの下に、もう一本バーが増えてない? 『EP』って書いてある」
「は?」
莉奈が視界の端を確認すると、確かにMPバーの下に見慣れない細いゲージが表示されていた。『EP:??/??』数値すら読めない。
「何コレ。またゲームのアレ?」
「分からない。ただ……交差点にいた時は満タンっぽく光ってたのに、地下に入った途端に目に見えて減ってる。場所で変わるのかも」
健一はフリーペーパーの裏に走り書きした。
『EP=Ether Point(仮)場所依存。地上(交差点)で最大、地下で減少。バフかデバフか? 必殺技用ではなさそう。深いほど減少した場合、何かが不利になるかも。ボスがいるなら短期決戦は必須か』
「莉奈、この先のルートなんだけど」
健一がマップを広げた。路線図の上に、ボールペンで二本の線が引かれている。
「正面から副都心線方面を突っ切ると最短だ。でもモンスターの密度が高い。右に折れて宮益坂口方面から回り込めば、距離は倍以上になるけど、敵の数は半分以下に抑えられる」
「最短で行くに決まってんでしょ。モンスターなんかアタシが蹴散らす」
莉奈が即答すると、健一は首を横に振った。
「駄目だ。今のMP残量で正面突破したら、コアに辿り着く前にガス欠になる。迂回ルートなら、戦闘を最小限に抑えてMPを温存できる」
「はぁ? ビビってんの? 遠回りしてる間にモンスターが増えたらどうすんのよ」
「ビビってるんじゃなくて、計算してるんだ。正面ルートのモンスター密度は一平方メートルあたり──」
「数字の話はいいっつーの!」
莉奈は苛立ちを隠さなかった。だが健一も、いつもの気弱さを引っ込めて一歩も退かなかった。
「莉奈が強いのは分かってる。でも、最短で突っ込んで途中で力尽きたら、それこそ全部終わりだ。頼むから、ここは僕の判断を信じてくれ」
その声には、シャッターの制御盤をこじ開けた時と同じ、静かな覚悟があった。
莉奈は数秒間、健一の目を睨みつけた。
逸らさない。
この幼馴染が本気の時は、目が据わる。
それを莉奈は知っていた。
「知らない。アタシは最短で行く」
莉奈は健一の制止を振り切って、正面の通路に踏み出した。
「莉奈、待って──!」
三歩。たった三歩で、莉奈の世界が揺れた。
足元のタイルが沈み込み、天井から鉄の格子が轟音を立てて降りてきた。莉奈は咄嗟に後ろに飛び退いたが、格子の先端が金髪の毛先を数本、きれいに切り落とした。あと半歩遅かったら、頭が潰されていた。
「っ!」
格子の向こう側で、赤い眼をした何かがうごめいている。待ち伏せだ。罠と連動したモンスターの配置。最短ルートは、最初から殺しにかかっていた。
莉奈は数秒間、切り落とされた自分の髪を見つめた。そして、奥歯を噛みしめながら振り返った。
「……迂回ルート、どっち」
健一は何も言わなかった。「だから言っただろ」とも「ほら見ろ」とも。ただ静かに右の通路を指差した。
莉奈は舌打ちをして、右の通路に歩き出した。健一は正面ルートの入り口に置いていた紙片を、黙って拾い上げた。間違った道に目印は要らない。正解の道だけに目印になる糸を残す。それが、このダンジョンでのマイルールだ。
自分の判断が間違っていたことを認めるのは、タロスに殴られるより痛かった。でも、健一がそれを責めなかったことが、もっと痛かった。
「……ごめん」
小さく、ほとんど息だけの声だった。
健一の耳に届いたかどうかは分からない。でも、健一は半歩だけ、いつもより莉奈に近い位置を歩いた。
「僕のマップだと、この下からが本格的な迷宮になってる。古代ギリシャ人がこれを見たら、ラビュリントスって呼ぶだろうね。小型のモンスターの反応も散見されるし、何より……」
健一がステータス画面を睨みながら、ごくりと息を呑んだ。
「最下層から、桁違いのエネルギー反応がする。たぶん、それがこのダンジョンの……」
「ボス、ってやつね」
莉奈は、まだ少し震えが残る足に気合いを入れ、靴紐を結び直した。
「行くわよ。アタシの……MP? だっけ。アレが回復するまで、アンタのナビが頼りなんだからね」
「了解。任せて」
薄暗い地下への階段を下りながら、健一はふと足を止めた。【解析】のマップの片隅に、これまで見たことのない巨大な反応が一つだけ、深い場所で脈打っているのが見えたからだ。
そして、もう一つ。マップ上の魔力の流れが、全て同じ方角──地上のハチ公口がある方向──に向かって、かすかに収束しているように見えた。
偶然かもしれない。
もう一つ気になったのは、莉奈のEPバーだ。交差点付近では『??/??』だった表示が、地下に潜るにつれてゲージの色がわずかに薄くなっている気がする。
何を意味するのかは、まだ分からない。
だが、健一はそれを莉奈に言わなかった。
まだ、言えなかった。




