外伝 第9話 命令の味
中層に入ると、迷宮の構造が一変した。
上層は名古屋駅の地下街を歪曲させたものだったが、中層はもはや名古屋の面影すらなかった。石造りの壁、松明のような赤紫の光源、そして、壁面に刻まれた文字。
テツが壁に触れた。【測質】
「石灰岩。でも自然のものじゃない。誰かが造った壁だ。加工の精度が異常に高い」
壁面の文字を、ダイは読めなかった。ただ、文字に混じった数字には見覚えがあった。
「14」
「12」
「10」
「9」
並んだ数字は、ダイたちが残された人数を順に辿っていた。
自分たちが数えられていると気づき、ダイの背筋に冷たいものが走った。
上層で重ねてきた三人のスキル連携は、中層でも役に立った。
ダイが距離を測り【測距】
テツが壁の材質を調べ【測質】
マーサが空気の流れから敵の位置を予測する【測流】
三人で情報を確かめ合いながら、見えない先の道を選んだ。
「右の通路、距離百五十メートルで行き止まり。左は二百八十メートル先で分岐」
「左の壁、硬度が低い。隠し通路がある可能性」
「空気の流れは左。生き物の気配はなし」
「左だ。進め」
指示を出すたびに、九人の隊列が動いた。分岐を選ぶダイの返答は速くなった。立ち止まっている間に、また何かが起きることを恐れていた。
休息の時間。松明の光の下で、九人が壁に背を預けて座り込んだ。
マーサはダイの隣にもためらわず腰を下ろした。途中で言葉を交わしたばかりの相手にも、同じように近づいていた。
座る位置を決める時も、水を配っていた岩田が通れる分を空けた。ダイには、マーサが人の動きそうな先を見て場所を選んでいるように思えた。
「人混み、歩き慣れてるのか」
「ぶつからんように、空く方を見とるだけ。駅でも、前の人が止まったら先に止まるやろ? 今は風も、どっちへ抜けるか分かるんやけど」
ダイが測ってきたのは、出口までの距離だった。その途中を歩く人々の足元にも、マーサは目を向けていた。ダイは、岩田が二人の前を通り過ぎるのを見送った。
「ダイくんさぁ」
「なんだ」
「サッカー部のキャプテンなんやろ? いつもこんな感じ?」
「こんな感じって?」
「全部一人で決めて、全部一人で背負う感じ」
ダイは返事に詰まった。
見上げてくるマーサから目を逸らし、棒の先を見た。
「サッカーは十一人でやるもんやよ。キャプテンが全部決めるんやったら、残りの十人いらんくない?」
「……うるせぇ。寝ろ」
マーサは「へーい」と言って目を閉じた。
三秒もすると寝息が聞こえ、ダイは呆れたように息を吐いた。
テツは暗がりの向こうからダイを見ていた。目が合っても、何も言わなかった。
ダイは壁の数字を見た。「9」の横に、新しい数字はまだ刻まれていない。
次の数字が、少しでも大きいままであってほしいとダイは願った。
そう願う以外の手立てを探そうとしても、次の命令は浮かばなかった。
* * *
ダイのステータス画面に、エムプーサという名が表示された。
壁面に擬態する化け物だった。
ダイには、爪が動くまで壁との境目が見えなかった。
進む方向を測れても、そこに紛れた敵までは分からなかった。ダイは棒を構え直した。
テツの【測質】が壁の材質の違和感を捉え、エムプーサの擬態を暴いた。
だが一匹ではなかった。
通路の壁面に三匹が張り付いていた。
「全員、壁から離れろ! 通路の中央に集まれ!」
ダイの命令で全員が中央に集まった。エムプーサが壁面から剥がれ落ち、通路を塞ぐように散開する。前後を挟まれた。
「斥候。前方のエムプーサの脇を【加速】で抜けろ。抜けた先に通路がある。そこで待機」
「了解!」
相馬が走った。【加速】の全力。エムプーサの横を風のように駆け抜ける
──が、通路の先にもう一匹いた。壁面に擬態していた四匹目。
相馬の足が止まった瞬間、四匹目のエムプーサが腕を振るった。
「相馬──!」
相馬の身体が光に包まれ、粒子になって消えた。
通路の先にはエムプーサだけが残った。
ダイが「走れ」と命じた先に、罠があった。
「後ろへ下がれ!」
ダイが叫んだ背後にも、一匹がいた。
テツが棒で爪を横へ押し、ダイはその隙間へ肩を入れた。棒を打っても、壁のような皮膚に弾かれた。戻ってきた爪が、ダイの上着を裂いた。
「あいつは腹側だ。剥がれる瞬間だけ、柔らかい」
テツが叫んだ。
壁へ戻ろうとした一匹の下へ、マーサが投げた石が入る。身体が浮いたところを、ダイとテツが棒で突いた。一匹が光に散る。
空いた壁際へ、残る人間を通した。
だが、全員は間に合わなかった。
最後尾へ爪が届き、助けに戻った一人も壁へ叩きつけられた。
二つの光を背に、ダイたちは角を曲がる。
追ってきた個体を棒で押し退け、狭い角へ挟んで、ようやく撃退した。
六人になった。
通路に静寂が戻った後、ダイは壁に拳を打ちつけた。
「くそっ……」
ダイの頭には、相馬の顔と「了解!」と答えた声が繰り返し浮かんだ。
自分の命令を信じて走った先で、相馬は消えた。通路の距離を測っただけで、ダイはその先を進めると決めていた。
罠を見抜けなかったのは仕方がないと考えかけ、ダイは拳を壁へ押しつけた。
テツに壁を調べてもらう三秒も取らず、安全かどうかを確かめないまま進ませていた。命令を急いだ理由を、言い訳をいくら探しても、思い当たらなかった。
答えは出なかった。
ダイは壁に手をついたまま、出した命令を何度も辿り直した。
テツがダイの隣に立った。
「ダイ。お前の判断は正しかった」
「正しかったから何だよ。相馬は消えた」
「正しかった。でも、正しいことと、後悔しないことは別だ」
ダイはテツを見た。
普段なら一言か二言で終わる相手が、口を閉じずに言葉を続けた。その言葉を、すぐには返せなかった。
「俺の命令は正しかった」
ダイは口に出し、自分に言い聞かせた。犠牲を最小限にした判断だったと、もう一度考えようとした。
テツが頷いた。
「そうだな」
ダイは頷き返せなかった。
さっきまで頼もしかった同意が、今は冷たく聞こえた。
本当に同意しているのか、自己弁護を黙って聞いているだけなのか。
テツの無表情から、ダイはどちらとも読み取れなかった。
壁に新しい数字が刻まれていた。
「14」
「12」
「10」
「9」
「6」
ダイは数字を見つめた。
十四から六。
白石と中島、柳と相馬、残る四人の名前も、今ならすべて思い出せた。
だが、最後に名前で指示を出した場面を、ダイは思い出せなかった。
先ほどの命令を辿ると、「前へ出ろ」「走れ」「止まれ」という言葉が残った。
役割と状況で伝わるたびに、
ダイは名前を省くようになっていた。
マーサは黙ってダイの隣を歩いていた。
何度も声を上げていた口が、
今は閉じたままだった。
ダイは何度か横を見たが、
声をかけられなかった。




