外伝 第7話 俺が決める
二月の終わり。
ダイが渋谷のダンジョン化をニュースで見てから、まだ日が浅かった。
その日、ダイは名古屋駅の地下街で味噌カツサンドを食べていた。
部活帰りの空腹に、甘辛い味噌の味が染み渡った。向かいの席では、テツがいつもの無表情でコーヒーを啜っていた。高校一年生だが、選ぶのは決まってブラックだった。
「ダイ。お前、味噌カツサンドの食い方が汚い」
「うるせぇ。美味いもんを上品に食えるか」
テツは表情を変えず、紙ナプキンを一枚差し出した。
ダイが口元に触れると、指にソースがついた。付き合い始めの頃は怖く見えた無表情も、今では気にならない。こうして黙って世話を焼かれることには、もう慣れていた。
ダイはナプキンで口を拭い、残りの味噌カツサンドを二口で片づけた。部活帰りなら、大人一人前を五分で平らげる。
サッカー部ではキャプテンを務め、指示出しの速さにも自信があった。
時計は午後四時半。
名古屋駅の地下街は、平日の夕方にしては妙に人が多かった。スーツ姿のサラリーマン、買い物帰りの主婦、修学旅行らしき制服の集団。名古屋駅の地下は東京や大阪に比べれば単純な造りだが、それでも初めて来た人間は迷う。
地元民が「名駅は迷駅」と笑う程度には複雑だ。
「そろそろ出るか。次の電車──」
足元が、揺れた。
ダイは地震かと思った。だが次の瞬間、地下街の照明が一斉に消えた。非常灯の赤い光だけが、薄暗い通路を染めていく。
悲鳴が上がった。何十人もの声が重なって、トンネルのように反響する。
「テツ」
「ああ」
テツは既にコーヒーを置いて立ち上がっていた。ダイが椅子を引くよりも早く、通路へ目を向けていた。表情は変わっていなかった。
地面の亀裂から、赤紫色の光が溢れ出した。ダイはニュースの映像を思い出した。画面越しにはゲームの魔法陣のようにも見えた光が、目の前では生きた内臓を思わせる色で脈打っていた。
「全員! 走るな! 将棋倒しになるぞ!」
ダイは反射的に叫んでいた。試合中、何百回と号令をかけてきた声が地下街に響き、数十人の視線が一斉に集まった。
その瞬間、ダイの脳内にノイズが走った。
『名古屋をご利用いただき、ありがとうございます。対象者の選別を開始いたします──』
名古屋駅の案内放送を不気味に真似た声だった。ただ、ダイには合成音らしい響きの奥に、微かな震えが聞こえた。最後の言葉は、どこか申し訳なさそうに途切れた。
選別、という言葉通り、地下街にいた人間の大半が赤い光に弾かれるように消えていった。ダイが残された人々を数えると、自分を含めて十四人いた。
ダイとテツ。
制服姿の中学生の女の子が一人。
スーツのサラリーマンが三人。
大学生くらいの男が二人。
主婦が一人。
老人が一人。
あとは、バラバラの年齢の男女が四人。
全員が怯えた目で、互いを見ている。誰も動かない。誰も声を出さない。
ダイの視界の端に、ステータス画面が浮かんだ。
『ダイ』
『クラス:測量士(Lv.1)』
『スキル:【測距】』
【測距】という表示を見て、ダイは目の前の通路に意識を向けた。出口までの距離として、三千二百メートルという数値が浮かんだ。
サッカーの試合では、その何倍もの距離を走る。ダイは数字を見て、わずかに息をついた。
だが、地下街の通路は既に変形していた。壁がうねり、天井がせり上がり、見慣れたはずの名駅の地下が、全く知らない迷宮に書き換えられている。三千二百メートルの直線距離は、迷路を通れば何倍にもなる。
十三人の恐怖の目が、ダイを見ている。さっき「走るな」と叫んだ者に、視線が集まっていた。
ダイは試合中、判断に迷うところを仲間に見せないようにしていた。迷えばチームの動きも鈍る。今も同じだと考え、怯えた顔を順に見渡した。
「杉浦大。ダイでいい。俺がリーダーをやる」
ダイの声に迷いはなかった。
「文句ある奴は、自分で出口を見つけてくれ。ついてくる奴は、俺の指示に従え。名前と年齢、言える奴から言え」
十四人が、動き始めた。
テツは無表情のまま、ダイの隣に立った。紙ナプキンを一枚、まだ手に持っていた。
出口までの三千二百メートルは、ダイにはまだ踏破できる距離に思えていた。
その距離を測れても、一緒に歩く人間のことを、ダイはまだ何も知らなかった。
ダイが十三人の名前と年齢を聞き終えるまでに、五分かかった。
大学三年の柳は体格がよく、格闘技の経験もあった。スキルは皮膚を一時的に硬質化する【硬化】。ダイは前衛に置くことを決めた。
相馬は高校一年で、陸上部に所属していた。足が速く、【加速】も持っていたため、斥候役に決まった。
中学二年のマーサは、自己紹介の時から声が大きかった。緊張した輪の中でも、よく笑って喋った。【測流】は空気や水の流れを感知するスキルで、ダイは自分とテツの能力を補えると考えた。
テツのスキルは【測質】だった。触れた素材の硬度、密度、強度を数値化する。説明を聞いたダイは、壊せる壁の判別にも使えそうだと考えた。
残りの九人も、それぞれにスキルを持っていた。【発光】【治癒】【感知】【防壁】。説明を聞くうちに、隊列の形がダイの中で定まり始めた。
ダイは五分で十四人の能力を把握し、隊列を組んだ。
先頭は斥候役の相馬、
その後ろは柳と戦闘系スキルを持つ二人だった。
中央には非戦闘系の七人が入り、
後方をテツとダイ、
最後尾をマーサが歩くことになった。
「マーサ、お前は後ろから空気の流れを読め。背後から来る敵を察知しろ」
「了解っ! ……って、わたし、なんで呼び捨てなん? 初対面やよ?」
「非常時に敬語使ってる余裕はない。全員呼び捨てでいく。文句あるか」
マーサは一瞬むっとした顔をしたが、すぐに「まあ、ええけど」と肩をすくめ、最後尾へ回った。
テツがダイの隣へ寄り、声を落とした。
「ダイ。お前、楽しそうだな」
「は? 楽しいわけねぇだろ。命がかかってんだぞ」
テツは表情を変えず、前を向いた。否定も肯定もしなかった。その沈黙が、ダイには自分の返答より重く感じられた。
ダイは言い返しかけたが、口を閉じた。視線を通路へ戻し、まずは全員を先へ進ませようとした。
迷宮の構造は、名古屋駅の地下街を歪曲させたものだった。
見覚えのある店舗の看板が、あり得ない角度で天井から垂れ下がっている。エスカレーターは階段に書き換えられ、改札口は鉄格子の門に変わっている。
倒れた案内板のそばで、テツが足を止めた。折れた支柱と、外れた金属の横棒を一本ずつ拾い、床へ押しつけてしなりを確かめる。軽すぎるものは戻した。
「手は空けとけって言っただろ」
「空けて、何で身を守るんだ」
テツが腕ほどの長さの棒を差し出した。ダイは受け取り、二、三度振った。武器と呼ぶには頼りなかったが、牙へ素手を出すよりはましだと考えた。
一行は使えそうなものを探した。柳と相馬にも一本ずつ渡し、ダイとテツ、マーサは片手で持てる短い棒を選んだ。割れた端を手に近づけず、握る場所の鋭いささくれを石で落とした。残りの人々も板や石を手にした。
「振り回すな。前の奴との間は空けろ」
ダイは隊列に戻った十三人を数え、抜けた者がいないことを確かめた。
テツは棒を左手へ持ち替え、右手で壁に触れた。
ダイの【測距】が、分岐ごとの出口までの距離を示す。ただし数字が減る方が近道とは限らない。曲がった先の行き止まりも確かめ、引き返す距離まで入れて道を選んだ。
「右。次の分岐も右。その先は左だ」
ダイの指示で一行が進み、十四人の足音が次第に揃っていった。振り向いて隊列を確かめたダイの歩調も、少し速くなった。
最初の三十分は、何事もなく進んだ。
通路の様子が変わっていることに、最初に気づいたのはテツだった。
テツが壁に触れた。
その手つきを見て、ダイは中学の教室を思い出した。机ががたついた時も、テツは同じように手を置いた。ダイが『壊れてる』と決めつけた机の脚を一本ずつ押し、緩んだねじを見つけた。
今回もダイは、テツが確かめ終えるのを待った。
「硬度が変わった。さっきまでコンクリート相当だったのが、ここから先は石灰岩に近い。柔らかくなってる」
「それが何を意味する?」
「壁が壊せる。つまり、壁の向こうに道がある可能性。あるいは、壁の中に何かがいる可能性」
マーサが後方から声を上げた。
「ダイくん! 前から何か来る! 空気を押す流れが、五つ!」
ダイの視線が、隊列の前から後ろへ走った。
ダイは一秒で隊列を組み替えた。
「柳、前へ。【硬化】準備。相馬、左壁に張り付け。非戦闘組は後退。テツ、床の強度を測れ──崩落するかもしれない」
通路の奥から、赤茶色の獣が五匹、扇状に広がりながら迫ってきた。
獣は猪に似ていた。ダイのステータス画面に、パイアという名が表示された。
柳が前に出た。【硬化】で腕を鋼のように変え、先頭の一匹の突進を受け止める。衝撃で足が滑るが、踏みとどまった。
「でけぇ! でも、止められる!」
柳は突進を押し止めたまま笑った。その声を聞き、後ろにいた者たちも棒を構え直した。
二匹目、三匹目を【発光】持ちが目潰しで足止めし、相馬が【加速】で背後に回る。棒を後脚の間へ差し込み、突進の向きを壁へずらした。
だが、残る二匹はその脇を抜け、中央の非戦闘組へ向かってきた。
「後ろへ! 前衛、右を塞げ!」
柳が一匹の頭を両腕で押さえた。
ダイはもう一匹の牙を棒で横へ弾き、すぐ手を引いた。棒越しに手首が痺れ、突進を止めきれなかった。だが、逸れた先には壁があった。獣が鼻先をぶつけると、戻ってきた相馬が棒を打ち下ろした。
一匹を挟み込んで倒し、次へ向き直る。その繰り返しで、五匹のパイアは三分で光に散った。
柳が押さえ、相馬が後ろへ回る形が、最後には声をかける前にできていた。
十四人に怪我はなかった。
ダイは隊列を見回し、初戦を切り抜けたことを確かめた。
棒を握り直す手にも、力が戻っていた。
「ナイス! やれるやん、わたしたち!」
マーサが無邪気に声を上げる。柳がガッツポーズをし、相馬が息を切らしながら笑う。十四人の間に、微かな高揚感が広がった。
ダイは頷きながら、次の分岐の距離を測った。
出口まで二千八百メートル。四百メートル分縮まった数字を見て、順調に進めていると判断した。
テツが、ダイの手元を見ていた。
「ダイ」
「なんだ」
「全員の名前、覚えとけよ」
「もう聞いた」
テツは何も言わなかった。
ただ、いつものように無表情で前を向いた。
ダイは次の曲がり角へ視線を戻した。
忠告の意味を考えるより、
先へ進むことを優先した。




