第73話 エピローグ
父と電話した週の、四月の夕暮れ。
新宿のカラオケ店で、採点機に『93点』が出た。
金子がソファから跳び上がる。
「勝った! 莉奈ちゃんに勝った!」
「一回だけっしょ。もう一曲」
健一に判定を求める二人を、大阪が笑い、和田が次の曲を入れた。
店を出ると、健一が莉奈の隣を歩いた。
少し先に金子と大阪、後ろに和田。
スマホが震えた。父親からのメッセージ。
『今度、会えるか』
莉奈は立ち止まった。
数秒間、画面を見つめた。
それから指を動かした。
『考えとく』
送信して、スマホをポケットにしまった。
「莉奈ちゃん、何ニヤニヤしてんの」
「してない。行くわよ」
* * *
さらに数日後。
莉奈はアステリオスに会いに保護施設を訪ねた。
東京駅から帰って三日後、健一が「本人が名前を選んだ」と知らせてくれた。候補は健一がメッセージアプリのグループで集めたもので、莉奈の出した「フラッペ」は一秒で首を横に振られたと、後で聞いた。
あの日、四メートルあった身体は三メートルを切っていた。
その後も変化は止まらなかった。
何日か施設を訪ねる間に、毎朝少しずつ背が縮み、角が短くなる。保護担当官が記録した数字は、二百四十センチ、二百十センチ、百八十センチ。
本人はそのたびに壁の印を指で確かめていた。大きな身体に戻るのが怖いのかと訊くと、首を横に振った。
小さくなった自分の手で、ドアノブを回せるのが嬉しいのだという。
牛の面影が消えたわけではない。
光が肌の表面でわずかに折れ、角の跡や輪郭を人の形に見せている。イカロスの隣に立てば、ごく普通の、背の高い少年だった。影に入ると耳のあたりだけが一瞬揺れるが、アステリオス自身はそれを隠そうとしなかった。
「外、行キタイ」
そう言って、初めて施設の門を自分で開けた。
保護担当官は少し離れてついてくるだけだった。
百八十センチに落ち着いた日の午後、莉奈と健一はアステリオスを連れて、新宿駅近くのカフェで梅田組と待ち合わせた。
三人は、莉奈の隣に立つアステリオスを見ても、すぐには気づかなかった。
「莉奈ちゃん、隣の人……彼氏?」
金子の視線がアステリオスから健一へ跳ぶ。
「てことは、健一くん──」
「違う!」
「まだ何も言うてへんよ?」
「顔に書いてある!」
「僕、何の話か分かってないんだけど」
健一は莉奈と金子を見比べた。
金子は笑っている。だが、その目だけは健一の返事を少し待っていた。莉奈には分かった。
アステリオスが莉奈の隣で胸に手を当てた。
施設で名前を呼ばれるたび、そうして自分を指していた。
「オレ、アステリオス」
「……あの子か」
大阪が先に気づいた。
金子の笑顔が止まり、
和田がアステリオスを上から下まで見た。
「四メートル、どこ置いてきてん」
「施設の壁に、測った印が残ってるわよ」と莉奈が答えた。
金子は、目の前の顔をもう一度見た。
東京駅で別れた時と違う輪郭。それでも、こちらを見つめる目は同じだった。
「そっか。自分の足で、ここまで来たんやな」
金子が両手を広げると、アステリオスは自分から一歩近づいた。
金子の腕が、今度はちゃんと背中に回った。
「大きなったんか、小さなったんか分からへん……」
「両方でええんちゃうか」と和田が言う。
大阪は目元を擦り、「せやな」と頷いた。
* * *
転校の話が進んだ数日間、保護担当官と担任は施設の学習室で二人に会った。教室の写真を見せられたアステリオスは、机の下で拳を握った。「ヒト、オオイ」。施設の門を自分で開けられても、知らない大勢の前に立つのは別だった。
「つらくなったら教室を出ていい」と担任は言った。
イカロスが隣で「俺もいる」と答える。
アステリオスは写真をもう一度見てから、「イク」と自分で決めた。
保護担当官は、連絡があればすぐ迎えに来ると約束した。
次の登校日、莉奈と健一の教室に、転校生が二人来た。
二人が来ることは莉奈たちも知っている。
イカロスはカタカナを書き留めた小さなノートを制服のポケットに入れていた。秘密だったのは、アステリオスが自分で決めた、学校で使う漢字の方だ。
「イカロスです。よろしくお願いします」
先に名乗ったイカロスに、教室が少しざわついた。
誰かが「キラキラネーム?」と囁く。
イカロスは聞こえないふりをして、チョークを隣のアステリオスへ渡した。
アステリオスは黒板に向かった。
強く握りすぎたチョークが、ぱきっと短くなる。
残った半分で、大きな文字を書いた。
明日照 桜須。
「オレ、アステリオス。ヨロシク、オネガイシマス」
教室から「すごい名前」と声が上がった。
莉奈と健一は、同時に机へ顔を伏せた。
「……健一。アンタ、漢字まで教えた?」
「僕じゃない。名前の候補を言っただけ」
そのやり取りを聞いたイカロスが、二人の方を向きかけて口を閉じた。
教室のみんなには、何の話か分からない。
昼休み。
四人は中庭の遅咲きの桜の木の下で弁当を広げた。
イカロスの手にはツナマヨのおにぎりがある。
「で、あの漢字、誰が教えたの?」
莉奈が訊くと、イカロスは包みを開きながら即答した。
「俺じゃない」
「まだ名前も出してないけど」
「顔に書いてある」
アステリオスが自分を指さした。
「ジブンデ、エランダ。ダイダロスの辞書、ミタ。アシタを、テラス。サクラは……スコシのアイダでも、サク」
健一の笑いが止まった。
莉奈も黒板の文字を思い浮かべて、口をつぐむ。
「……アンタ、いい名前つけたじゃん」
風が吹いた。
校庭から流れてきた花びらが、
四人の弁当の上を通り過ぎる。
アステリオスは掌を広げ、
一枚を受け止めた。
「……アシタも、サク?」
莉奈はアステリオスの掌の花びらを見つめた。
「咲くわよ。明日も、明後日も」
イグザム迷宮 本編 了




