第72話 甘い放課後
十日後。
新宿のカフェ。テラス席。
莉奈の前には、フラペチーノ。
健一はコーヒー。
金子はホットチョコレート。
大阪はアイスコーヒー。
和田は一杯目のコーヒーを飲み干し、フラペチーノを手にしていた。
山岸はオレンジジュース。
小保内はハーブティー。
山岸は新宿の後に甘いフラペチーノでむせてから、ジュースにしている。
大阪はアイスコーヒーのストローを噛んで、金子の表情をうかがっていた。
「和田、アンタだけ二杯飲んでんじゃないわよ」
「甘いもん好きやねん」
「じゃあ最初からフラペチーノ頼みなさいよ」
「一杯目はコーヒーの気分やってん」
小保内はハーブティーを両手で包んだ。
「そういえば、皆さんに話していないことがあるんです」
「東京駅で【ハイディング】を解いた時、クラス欄が『草』から『女』になったんです」
「女? 先輩、ずっと女やん!」金子が身を乗り出した。
「いや、性別やなくてクラス名やろ」と大阪。
「ダンジョン、急に雑な表示になったん?」和田も首を傾げた。
「くノ一でしょ!」
「『女』って、書き順が『く』『ノ』『一』じゃん。だからくノ一。小保内さん、気配消すの得意だったじゃん」
言い切って、莉奈はフラペチーノへ手を伸ばした。
その指が、途中で止まる。
「……待って。これ、先に正解言った人が負けのやつじゃない!?」
「誰も勝負始めてへんけど」と大阪。
「今から始めたら、莉奈ちゃんの負けからやな」と和田。
「莉奈ちゃん、めっちゃ得意げやった!」
「金子、そこ言わなくていい!」
山岸がジュースのグラスを置き、顔を背けた。肩が揺れている。
「でも、たぶん答えは合ってるよ」と健一。
「アンタのそのフォローが一番きつい!」
小保内はカップの向こうで笑った。
「私は、教えてもらえて助かりました」
「……なら、いいけど」
「ほな、前の『草』は? 新宿で健一くんが何か言うてたやろ」大阪が訊いた。
健一がメガネを押し上げた。
「草の者。忍びの別名だよ。新宿ではそこで止まってた。東京駅でステータスにノイズが出てたのは、【ハイディング】がクラス欄まで覆ってたからだと思う」
「クラスが変わったんやなくて、やっと見えたんやな」と金子。
「あの時は、王の方が気になって言えませんでした」
小保内はカップに目を落とした。
「今は画面もありませんけど」
「先輩の合図は、俺が覚えてますよ」と山岸。
小保内は顔を上げ、湯気の向こうで微笑んだ。
金子は予告どおり健一の左隣に座っていた。
莉奈は右隣。
健一が椅子を引いた時、二人は別々の方からほとんど同時に席を取った。
健一は膝の上の異世界ものの文庫本を開きかけたまま、左右を見た。
「健一くん、今度、うちと一曲歌わへん?」
「僕、上手くないよ」
「知ってる。小学校の合唱でサビだけ先に入ってた」と莉奈が口を挟んだ。
「莉奈ちゃん、そこまで覚えとるんや」
「……たまたまよ」
「じゃあ、今の健一くんの歌は、うちが先に聴けるな」
金子の笑い方に挑む色はなかった。だからこそ、莉奈も言い返せない。
「採点はアタシがやる。手加減しないから」
「え、僕、歌うってまだ言ってないんだけど」
健一が困った顔で左右を見ると、金子が声を上げて笑った。
莉奈はフラペチーノを一口飲んだ。
甘い。
渋谷で最初に飲んだ時は「甘すぎた」
渋谷から生還して健一と飲んだ時は「美味しかった」
新宿の後は「甘くない。ちょうどいい」
今日は──「甘い」。ただ、甘い。キャラメルとマカダミアとクランチの味がする。それ以上でも以下でもない。
莉奈はもう一口飲んだ。この甘さを好きか嫌いか、今すぐ決めなくてもよかった。
「ねえ健一」
「ん?」
「今、少し時間ある?」
「あるけど。カラオケ?」
「ううん。──ちょっと、付き合ってほしいことがある」
莉奈はスマホを取り出した。連絡先を開く。消せないまま残っていた名前。登録してから三年間、一度もタップしたことのない名前。
「神崎 修一」
父親の名前。
「電話、する。一人だと多分、途中で切っちゃうから。隣にいて」
健一は一瞬だけ目を見開いた。それから、穏やかに頷いた。
「いるよ。ずっと」
金子が健一の隣で、小さく頷いた。
大阪が黙ってアイスコーヒーを啜った。
和田がフラペチーノを置いて、何も言わず莉奈を見た。
莉奈は発信ボタンを押した。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
心臓がうるさい。
渋谷でタロスに囲まれた時より。
新宿の最深部でミノタウロスの前に立った時より。
東京駅でミノス王と対話した時より。
今が、一番怖い。
四回目のコール──繋がった。
「──もしもし」
父の声。低い声。留守電と同じ声。
でも、留守電より──生きている声。
莉奈は深く息を吸った。
隣に健一がいる。健一の向こうに金子がいる。
同じテーブルを、大阪、和田、山岸、小保内も囲んでいる。
もっと遠くに、ダイとテツとマーサと佐藤と汐沢と伊禮と輪島がいる。
一人じゃない。
「──もしもし。莉奈だけど」
長い。
長い沈黙。
コール音ではない。繋がっている。父が──言葉を探している。三年間の沈黙の後の、最初の一言を。
「……莉奈か」
「うん」
「──元気か」
「元気よ。──アンタは?」
声が震えた。
莉奈の声か、父の声か、分からなかった。
「……元気だ」
「そう。──良かった」
短いやりとりで、三年分を話せるはずはない。
でも、電話を切る前に、莉奈は自分から「アンタは?」と訊けた。
莉奈は電話を切った。
スマホをテーブルに置いた。
手が震えている。
「……泣いてないから。泣いてないからね」
「泣いてるよ、莉奈」
「泣いてない!」
健一が笑った。
金子が泣いていた。
大阪が「つられんな」と言いながら目を拭っていた。
和田が三杯目に、もう一杯フラペチーノを注文していた。
莉奈はフラペチーノの残りを一気に吸い込んだ。
ストローがずずっと鳴った。
甘い。
ただ、
甘い。
それでいい。
第三章 東京ダンジョン 了
『……ここまで付き合ってくれて、ありがと。
アタシたちのこと、見届けてくれて嬉しかったわよ。
この後はエピローグ。それから、みんなの話もあるから。
……アンタには、そっちも読んでほしい』
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ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
第三章「東京ダンジョン」は、これで終了です。
健一と莉奈たちの物語は、次のエピローグへ続きます。
その後には、各地の迷宮での出来事や、登場人物たちのその後を描く外伝も予定しています。
もう少し、お付き合いいただければ嬉しいです。
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