第71話 次のページへ
「記録しました。全部。──忘れないように」
名古屋組が駅へ向かう前に、佐藤が小さなメモ帳を開いていた。迷宮で【編纂】に留めた出来事と、救護班にも確かめた名前を、手で書き残していたのだ。
「記録って──何を?」
「名前です。昨日助けた一般人の方です。先に帰った方の名前は、救護班にも確かめました。足を折っていた女性は森さん。鞄を抱えていた方は川口さん。あの父子は田中さん。おばあちゃんは佐伯さん。高校生は佐伯翔太くん。瓦礫に足を挟まれていた方は、石井さん。──救った命に、名前がある」
佐藤の穏やかな目が、一瞬だけ強くなった。
「名前がある命を救った」ことが、記録として残る。数字ではなく、名前として。
ダイが口の中で「石井さん」と繰り返した。背中に残っていた温度に、名前がついた。
汐沢は佐藤の手帳に残った壁画の記述を見た。
「あれ、溶かさんでよかった」
伊禮が莉奈に近づいた。
「あの子──ミノタウロスから、怖さだけじゃなくて、少し安らいだ気配も伝わった。でも、父親を許したかどうかは、おれには分からない」
莉奈は頷いた。
言葉にならなかった。
輪島が通路へ短く声を飛ばした。いつもの癖だった。【反響】の表示はもうない。ただ駅の壁に、声が跳ね返る。
「迷宮の音じゃないな」輪島が息をついた。
「でも、声を出せば返ってくる」
ダイは「名古屋に着いたら、あの店の味噌カツサンドだ」と言い、
テツは「ブラックコーヒーも」と付け足した。
マーサが二人の間へ顔を出す。
「わたしも行く。勝手に二人分だけ頼まんといて」
ダイは今度は指で三人を数え、頷いた。
十四人が、それぞれの帰路についた。
名古屋組は新幹線。
北九州組は飛行機。
ヨロン島組は鹿児島まで移動し、そこから船で帰る。
伊禮が「急がないから」と笑った。大勢の声が重なる場所より、海の風の方が落ち着くらしい。
輪島が「波の音、また聞けるな」と返す。
広場に残ったのは、渋谷組と梅田組。七人。
金子が健一の前に回った。
「次に七人で集まる時、莉奈ちゃんと健一くんがいつも行ってるカフェにしよ」
健一が頷いた。
「いいね。莉奈も行ける?」
「行く。七人で入れるか、先に聞いとく」
「ほな、うち健一くんの隣、予約な」
「席の予約まで受け付けてないんだけど」
「莉奈ちゃんも、反対側空いとるで」
金子は笑っていた。
莉奈もつられて笑った。
健一は二人を見比べ、困ったように笑った。
「僕の席だけ、もう決まってるんだね」
大阪と和田が駅へ向かった。
金子は健一の手の傷を気にして振り返ったが、莉奈が「健一の親も来てるから」と広場の端を示すと、ようやく二人を追った。
健一は広場の端へ目をやった。
両親が、まだ並んで立っていた。
健一は走らずに、普通の速さでそちらへ歩いていった。
猫背の背中が、父親の隣で止まる。
莉奈はそれを見届けてから、駅へ歩き出した。
* * *
莉奈が家に着いたのは、九時を回った頃だった。
玄関の鍵を回すと、味噌汁の匂いがした。
リビングのテレビは消えていた。
食卓に茶碗が二つ。流しには、洗ったばかりのマグカップが一つ伏せてあった。
母親は台所で、味噌汁の火を弱めていた。
それから、振り向いた。
「おかえり」
「……ただいま」
莉奈はリュックを下ろし、底から空のペットボトルを取り出した。
家を出る朝、母親が黙ってテーブルの端に置いた水だ。中身は迷宮の中で、火傷を洗うのに使い切った。
空のボトルを、テーブルの端に置く。
あの朝と同じ場所に。
「水、ありがと。……役に立った」
母親は空のボトルを見て、それから莉奈の右手の包帯を見た。
「座りなさい。冷めるから」
食べ終わると、眠気が一度に押し寄せた。
ソファに座ったところまでは覚えている。
目を覚ますと、肩に毛布が掛かっていた。
窓の外は、もう昼の光だった。
茶碗は片づけられていた。
空のペットボトルだけが、
テーブルの端に置かれたままだった。




