第70話 地上の朝焼け
地上へ続く階段の先で、最後に残った紫の膜が薄くなっていく。
十四人は、東京駅の地下コンコースに立っていた。
普通の形に戻った駅の地下。改札機が並び、電光掲示板は消灯している。規制線の向こうに駅員と警察官の姿が見えるだけで、一般客はいない。
古代ギリシャの迷宮だった痕跡だけが、きれいに消えていた。
金子が「終わった、の?」と訊いた。
「終わったみたいだ」
健一がステータス画面を確認した。──消えていた。HPもMPもEPも、全て消えている。今度こそ、本当に。浮かんでいた半透明のウィンドウが、跡形もなく消えている。
莉奈は自分の右手を見た。痺れがない。チリッとした残響もない。一ヶ月前から時々感じていた「消えたはずのステータス画面の明滅」が、完全に消えている。
もう、雷は出ない。
地上に出ると、朝焼けだった。丸の内のビル群がオレンジ色の光に染まっている。紫のドームは跡形もない。パトカーと消防車はまだ残り、救急隊員と警察官が一斉に動き始めている。
バリケードの向こうには、健一の両親がまだ並んでいた。父親は手を振らなかった。健一も振らなかった。ただ、目が合った。
朝の冷たい春の風が、莉奈の火傷した手に触れた。
ミノタウロスが──莉奈の隣にいた。
規制線の向こうで警察の無線が一斉に騒がしくなった。四メートルの異形が地上へ出てきたのだから、当然だった。
政府の保護官たちが警察へ事情を説明し、人目を遮る幕を張り、大きな身体を安全に運べる車両の手配を始めた。
四メートルの身体には牛の頭がまだ残っている。赤い目には、琥珀色の光が混じり始めていた。
「こいつ、人の姿に近づけるのかな」と山岸が言った。
健一が四メートルの身体を見上げた。
「分からない。でも──呪いは消えた。時間がかかるかもしれないけど」
イカロスが走ってきた。保護官たちと一緒に、東京駅へ駆けつけていたのだ。数千年前の少年が、令和のスニーカーで、全力で走っている。
ミノタウロスを見つけて、駆け寄って、抱きついた。四メートルの身体に、少年がしがみつく。
「お前、小さくなったな」
ミノタウロスが、小さく鳴いた。穏やかな声。
イカロスの髪に、巨大な手がそっと触れた。──血は繋がっていない。それでも、父の手が届かない場所で長い時間を過ごしたことだけは、同じだった。
ダイダロスが、ゆっくりとイカロスの隣に立った。
老人の足取りは重い。魔力を使い果たし、壁画を描き、莉奈たちに叱られ、王の消滅を見届けた。疲労が限界を超えている。それでも座り込まず、三人で朝焼けを見た。
やがて保護官たちの幕が引かれ、三人の姿はその向こうへ移っていった。
大阪が金子の袖を引いた。左腕の布には血が滲んでいる。
「……めっちゃ、怖かった」
金子が頷くと、大阪は右手で顔を覆った。
昨夜は遠かった怖さが、今は喉を詰まらせる。和田が横に立ち、救護班の方へ三人で歩いた。
十四人とも、順に救護班で傷を診てもらった。
莉奈の右手に巻いていた布は、白い包帯に替えられた。手当てが終わる頃には、朝日が高くなっていた。ダイたち七人は、拾ってきた金属棒を駅員に預け、壊れた手すりから取ったものだと告げた。
丸の内広場の規制線の内側で、十四人が円になって立った。
規制線の向こうで、駅員や警察官が不思議そうに見ている。ボロボロの服装。血の跡。傷だらけの腕。ステンレスのポールを持った金髪のギャル。金属バットを担いだ大学生。
──異様な集団だ。
「全員、無事だったな」
山岸は、全員の顔を一人ずつ確かめていた。
「無事って言うか、ボロボロやけどな」
和田が笑った。
莉奈は仲間たちを見回した。
渋谷組四人。
梅田組三人。
名古屋組三人。
北九州組二人。
ヨロン島組二人。
「ねえ」
「アタシ、一人が楽だって思ってた」
莉奈は、ポールを持つ手を下ろした。
「十四人いると、うるさいし、勝手に前へ出るし、止めても来るし」
金子が「それ、褒めとる?」と訊いた。
「褒めてるわよ」
「一人より、ましだった」
金子が「莉奈ちゃーん!」と抱きつこうとして、大阪に襟首を掴まれた。
和田が拍手した。
山岸が「お嬢ちゃん、成長したな」と笑った。
小保内が控えめに微笑んだ。
山岸は、彼女が立っているかを一度だけ振り返って確かめた。
ダイの口角が上がった。
テツが「ダイ、今笑ったか」と訊くと、「笑ってない」と腕を組み直す。
マーサが「笑ってた」と証言した。
輪がほどける前に、ダイが莉奈の前に来た。
「神崎」
「何」
「名古屋では人数を数えて命令した。今回は、テツとマーサに残るか訊けた」
ダイは二人を振り返った。
マーサが手を振り、
テツは黙って頷いた。
「お前があの子の答えを待つと言ったのも、背中を押してくれた。ありがとう」
莉奈は、握りっぱなしだったポールから手を離した。
「決めたのは、アンタたちでしょ」
「そうだな」
ダイが手を差し出した。
莉奈は包帯のない左手で握った。短く、強く。
あの地下で合流した時、ダイが金子の手を握ったのと同じ握り方だった。
ダイが名古屋組の二人のところへ戻っていく。
莉奈もポールを駅員に預け、スマホを取り出した。
新宿の夜は、『大丈夫』と打ってから『あったら』と書き足した。
今度は、どちらも打たなかった。
『帰る。朝ごはん食べたい』
三秒後に返信。
『作って待ってる』




