第69話 ずれた王冠
ミノス王は、下ろした手を冠へ戻した。傾いた冠を押さえたまま、息子を見た。
「私のそばに残れ。この広間なら、まだ保てる」
ミノタウロスの赤い目が、南の穴へ動いた。
その脇にいる莉奈たちを見て、王の前から立ち上がった。
「待て」
ミノタウロスは伸ばされた手には触れず、莉奈たちのそばへ歩いた。狭い穴の先へ顔を向け、膝をつく。
王の上げた指が、行き場を失った。
床には、もう命令の光はない。
「ダイダロス。あの子を外へ出すには──」
「あの子が通れる道まで、迷宮を元に戻さねばならない。あの穴は、人が退くためのものだ」
「閉じれば、私は」
王はそこで言葉を切った。冠を押さえる指が震え、離れた息子を見る。
ミノタウロスは穴の先を見ていた。戻っては来ない。
「外へ出してやる。だから、最後に一度、私の手を取れ」
王は息子へ手を伸ばしかけた。ミノタウロスは振り向かない。穴の前で身を屈め、通れない先を見ている。
王の手は、冠の縁へ戻った。
「……いや。何もせずともよい。道は、戻す」
長い息が、王の口から漏れた。
「この迷宮を、閉じる」
ダイダロスが王へ向き直る。
「王の権能で、この迷宮を閉鎖へ回せるのか」
「私が命じて作らせた。私が、閉じる」
ミノス王が両手を広げた。
魔力が身体から流れ出す。不完全な迷宮の骨組みに、王の意志が、初めて「閉じる」方向に作用した。
最初に変わったのは、音だった。
きしみが止んだ。
四十秒ごとに鳴っていた天井や壁が、鳴らない。
輪島が反響を飛ばし、数秒待って、目を見開いた。
「……返ってくる音が、同じだ。もう動いてない」
マーサが手をかざしたまま呟いた。
「収縮、止まった。──間隔がゼロになる前に」
東京駅の地下が、ゆっくりと変わり始めた。
石造りの壁がコンクリートに戻る。松明が蛍光灯に変わる。歪んでいた通路がまっすぐになっていく。ミノタウロスのいる広間には、まだ高い天井が残されていた。
閉鎖は一息では終わらなかった。
王が通路を一本ずつ戻すあいだ、石とコンクリートの境界が動き続け、十四人は広間を出られない。
健一の掌、金子の右肩、大阪の左腕、莉奈の火傷、テツの頬を、皆で持ち合わせの水と布で手当てした。
通信が通るたびに地上の救護班へ状況を送り、道が戻るのを待つ。
莉奈は壁際のポールを拾った。
だが──ミノス王の身体が、薄くなっていた。
「アンタ……。消えるの?」
莉奈が訊いた。
「ああ。この身体は魔力でできている。迷宮を閉じれば、魔力を使い果たす」
「怖くないの」
ミノス王は笑おうとしたが、口元が歪んだ。
「怖い。──だが、もう逃げない」
数時間が過ぎ、地下の時計は日付を越えた。
王は息子から数歩離れた場所に座り、少しずつ光を失っていった。
外へ出られる最後の通路が戻った頃には、地上の夜も終わろうとしていた。
ミノタウロスが鳴いた。
父の身体が薄くなっていくのを、赤い目で見つめている。
やがて立ち上がり、父の前まで歩いた。
自分から頭を下げ、消えかけた手の前へ額を近づける。
王は息子の赤い目を見てから、そこに触れた。
「お前が生まれる前に、私が仕掛けた。妻にも、お前にも、選ばせなかった。そのくせ、生まれたお前を見て怯え、名前もつけずに閉じ込めた」
ミノス王の声が途切れた。
光の粒子が手から溢れ、指の形が崩れ始めている。
時間がない。
「許してくれとは言わない。迷宮の階段の前で、何度もお前の名を考えた。だが、決めれば降りて呼ばなければならない。私が何をしたか、お前の前で認めるのが怖くて……。一度も呼べなかった」
ミノタウロスが、低く短く鳴いた。
父に顔を向けたまま、もう一度鳴く。
王は消えかけた手を息子の額に残し、その声を聞いた。
ミノタウロスの身体も、変化していた。
ミノス王の魔力が消えることで、怪物の呪いが解けていく。
新宿で十メートルあった身体は、東京駅へ来た時には八メートルほどだった。今は六メートル。角が短くなり、筋肉の鎧が薄くなっていく。輪郭が──少しだけ、人間に近づいている。
「名前は、もう私が決めるものではない。お前が呼ばれたい名を──」
ミノス王の身体が、光の粒子に変わった。
手が先に消え、腕が消え、胸が消えていく。
王冠が最後に残った。
重力に引かれて落ちかける王冠を、ミノタウロスが──巨大な手で受け止めた。
王冠も、光に溶けた。
ミノタウロスの掌の上で、金色の粒子に変わって消えた。
父の魔力が完全に消えた瞬間、ミノタウロスの輪郭がもう一度揺らいだ。
六メートルの巨体が、ゆっくりと四メートルまで縮んでいく。角はさらに短くなり、怪物の輪郭がまた一つ、人間へ近づいた。
ミノタウロスが小さく鳴いた。
父がいた場所を見つめ、冠を受け止めた掌をすぐには動かさなかった。
ミノタウロスは、自分の額にそっと掌を当てた。
* * *
ドームの外では、夜が明けようとしていた。
丸の内のオフィス街は、自衛隊と警察と消防と報道陣で埋め尽くされていた。紫色のドームが東京駅を覆って、ほぼ一日。政府は統合対策本部を設置し、東京都内で三度目、全国で七件目のダンジョン化現象として対応していた。
バリケードの外に、家族たちが集まっていた。
排出された一般人と、その家族。昨日のうちに帰った人もいる。あの父子のうち、背中を怪我した父親は救急車で搬送された。息子は母親に抱きしめられて泣いていた。おばあちゃんと高校生は、家族の車で帰っていった。高校生はおばあちゃんの手を、車に乗るまで離さなかった。
ミノス王を見送った十四人は、復元された通路を丸の内側の地下コンコースまで進んでいた。地上へ続く階段の先には、まだ紫のドームが張っている。ミノタウロスは天井の高い通路を選び、ダイダロスとともに後ろから来ていた。
金子のスマホが鳴った。──母親からだった。
新宿の時にも、金子の母は電話をくれた。あの時、金子は「泣いてへん」と言いながらボロ泣きした。
今回も、着信表示は同じ「おかん」だった。
「もしもし、おかん? うん、大丈夫。うん。──え、泣いてるの? おかんが?」
金子の目が丸くなった。電話の向こうで母親も泣いているらしい。
莉奈はその横顔を見て、自分も帰ったら母に何か伝えようかと思った。
「大丈夫やから。帰るから。うん。おかんも、泣かんとって」
金子が電話を切った。目が赤かった。でも笑っていた。
その時、紫色のドームが水面のように揺らいだ。迷宮が現実側へ戻り始めた影響か、厚かった膜が一瞬だけ透ける。
内側から、バリケードの向こうの人影が見えた。
報道陣の隙間に、健一は見覚えのある猫背を見つけた。
中年の男性。肩を内側に巻き込むような立ち方。健一と同じ癖。
「……父さん?」
健一の父親が、バリケードの外に立っていた。母親と二人で。会話のない家庭の、会話のない二人が、並んで立っていた。仲が悪い二人が、一緒に来ていた。
健一の父親は、ドームを見つめていた。何も言わず。何もせず。ただ、息子が中にいるドームを見つめていた。
健一が手を振ろうとした時、父親がわずかに顔をそむけた。母親に何か言いかけて、やめた。──でも、帰らなかった。母親の隣に立ったまま、紫色のドームを見つめ続けた。
「……帰らないんだ」
健一が呟いた。
声が震えていた。
莉奈が健一の横に立った。
「来たじゃん。しかも今度は帰らないで待ってる」
「……うん」
「二人とも、同じとこ見てる。アンタがいる方」
健一は両親を見つめた。会話のない二人が、会話のないまま並んでいる。でも、今だけは同じ方向を見ていた。
「……そうだね」
「アタシの親父は、まだ来てもいないし」
莉奈は階段の上を見上げた。
紫色のドームが、内側から消え始めていた。




