第68話 伸ばされた手
王冠が片側へ傾いた。
光の粒子が頬から床へ落ちる。王は冠を直そうとせず、息子の方を見た。
マーサが天井を見上げた。
「……間隔、四十秒」
ミノス王が記憶を光として吐き出した分、迷宮を支える魔力まで流出したらしい。二分半まで戻っていた収縮間隔が、一気に縮んでいた。
輪島が壁に耳を寄せ、短く反響を飛ばした。
「この区画はまだ保つ。北側みたいに空洞じゃない」
「保つって、どのくらい」
「そこまでは分からない。一回かもしれないし、十回かもしれない」
ダイが動いた。
ダイは南の穴までの距離と、負傷者の位置を確かめた。
撤退が喉まで出かかった。名古屋では人数を数えて指示を出し、十一人が次々に光になって消えるのを見送った。
テツがダイの隣に立った。
いつもなら紙ナプキンを無言で差し出す手が、ダイの肩の近くで止まった。
「退く時は、言え」
「何を」
「撤退の指示。危ない時はオレたちも動く。今、残るかどうかは訊け」
マーサも反対側へ並んだ。
「わたしにも訊いて。勝手に三人分決めんといて」
ダイは二人を見て、それから莉奈を見た。
「……残るんだな」
「うん。輪島が壁と天井を見てる。危ない音がしたら、全員で南へ行く」
「どこまで待つ」
「次の収縮で、輪島にもう一度確かめてもらう。危ないなら、話の途中でも南へ退く」
莉奈は南壁の穴へ目をやった。
汐沢が手を添え、通路はまだ開いている。
「決めるのはあの子。アタシたちは、帰れる道を残して待つ」
「……分かった。落ちる音が変わったら、俺が声をかける」
ダイはテツとマーサへ向き直った。
「テツ、マーサ。……残るか、退くか」
「残る」とテツが言った。
マーサも頷く。
「わたしも、残る」
ダイはほかの仲間にも南の退路を指し示した。残るか退くかは、各自に任せた。
その間にも天井がきしむ。
輪島が反響を飛ばし、汐沢は南の穴を開けて待つ。
健一は負傷者から順に足場を示した。
十四人は出口の位置を把握しつつ、王と息子を見た。
ダイは莉奈の隣に立った。
「十四人全員で帰る。お前も入ってるからな」
ミノタウロスが、南の石柱の下から歩いてきた。
鎖のない脚で、ゆっくりと歩く。
王の数歩手前で膝をつき、顔を下ろした。
ミノス王が息子を見上げた。赤い目が、伸ばしかけた王の手を追う。
王はそのまま、額へ手を伸ばした。
ミノタウロスは自分の掌で遮る。指先が角に届く前に、王の手が止まる。
顔はそむけなかった。だが、額には触れさせなかった。
王は息子の掌を見つめ、伸ばした手を下ろした。
「……すまなかった」
ミノタウロスが低く鳴いた。
王がもう一度手を上げかけると、その目が手元を追う。
王は今度は伸ばさず、身体の脇へ下げた。
金子が泣いていた。
大阪は左腕の布を押さえ、息子が遮った掌を見つめている。頬を涙が伝った。止めようとして、指も震えた。EPバーの細い光が、わずかに伸びていた。
和田が大阪に肩を貸し、南の穴のそばへ寄った。金子もついていく。
健一は息を吐いた。
莉奈は火傷した掌を開き、置いたポールへ目をやった。王が手を下ろしたままなのを見て、拾わずにいる。
ダイダロスは壁際で、自分の指を見つめていた。鎖を作ったその手を、握り込んだ。
佐藤は棒を足元へ置き、手帳に「息子が掌を上げた。王は手を下ろした」と書いた。棒を拾い直す。
汐沢は退路の穴を見て、また親子へ目を戻した。
莉奈はポケットのスマホに触れた。
父の留守電はまだそこにある。
今は再生しない。
ただ、消さずに持っていた。




