第67話 光に浮かぶ宮殿
床へ落ちた光の中に、見知らぬ宮殿の輪郭が浮いた。
南壁の穴から、輪島が反響で広間を探った。崩れたのは北側だけだ。
南の石柱の下にミノタウロスがいることも確かめ、健一たちは残った足場から広間へ戻る。汐沢は穴を退路として開けたままにした。
莉奈が一歩退くと、床の光は広間の目地に沿って流れた。
そこへ見知らぬ人影が重なる。
伊禮が壁に手を当てた。【共鳴】が、その記憶を拾い上げた。
「……見える。この人の記憶が、石を通じて流れ込んでくる」
伊禮が語り始めた。静かな声で。
ミノス王の記憶を、言葉に変えて。
──王になった日のことを覚えている。
クレタ島の王宮。若い男が玉座に座った。父から受け継いだ王冠。重かった。頭が重いのではなく、肩が重かった。王になるということは、全ての判断の責任を負うということだった。
王は若く、野心に満ちていた。海を支配し、法を定め、死後には冥界の審判者になると信じていた。全てを正しく裁ける王。それが、自分の理想だった。
──王が妻に仕掛けた日のことを覚えている。
王家に人ならぬ力を取り込むため、白い牡牛を妻に近づけ、子を宿させる仕掛けをした。妻がそれを望むかどうか、尋ねなかった。生まれる子の姿が人と違うかもしれないと分かっていて、やめなかった。
──息子が生まれた日のことを覚えている。
産声が上がった。だが、産婆の顔が凍りついた。「王よ……」と言いかけて、言葉が続かなかった。
王は息子を見た。牛の頭。人間の身体。赤い目。小さな角。
泣き声に、王の腕が持ち上がった。だが、産婆が顔を上げると、その手を袖の中へ隠した。
伊禮の声に、低い別の声が重なった。
王の唇が、伊禮と同じ言葉をなぞっている。
抱き上げれば、皆が見る。私の腕の中に、私の子がいると。妻の目を見られなかった。目の前の子に責任はない。始めたのは、私だ。
民が見ている。臣下が見ている。「王の子が怪物だ」と噂が広がれば、妻に仕掛けたことまで知られる。王位も、正しかったはずの判断も崩れる。──そう恐れた。
「あの子に罪はない。王自身が選んだことだ」
伊禮が呟いた。
ミノス王の記憶は続いた。
──貢物を決めた日のことを覚えている。
アテナイに、少年七人と少女七人を送らせた。九年に一度。名目は、戦の賠償だった。
だが本当の理由は、別にあった。
迷宮に人を送り込めば、噂が立つ。あの地下には人を喰う怪物がいる、と。噂が立てば、誰も地下へ降りようとしない。誰も降りなければ──あれが王の子だと知る者は、永久に現れない。
十四人が、迷宮に入った。
そして全員、外へ吐き出された。
迷宮は、そういう造りだったのだ。奥へ進めなくなった者を、命を失わせずに外へ出す。私は「殺せる迷宮を作れ」と命じた。だがあの男は──ダイダロスは、最後の一点だけ、私の命令に従わなかった。殺さない迷宮を設計し、そ知らぬ顔で私に渡した。
ダイダロスが顔を上げた。
「違う」
伊禮の手が壁から浮き、記憶の流れが途切れた。
広間に、老人の声だけが残る。
「従わなかったのではない。従えない一点だけを残して、あとは全部造った。理不尽に解法を仕込めば、その手が軽くなる。そう思いたかっただけだ」
ミノス王は答えなかった。
伊禮が壁へ手を戻す。
迷宮から生きて出た十四人は、迷宮に入ってから外へ吐き出されるまでの出来事を覚えていなかった。口にできたのは、暗い部屋と大きな影を見たような、悪夢にも似た感覚の残りかすだけだった。
私は、彼らをアテナイへ帰さなかった。クレタの王宮から遠い土地へ移し、アテナイには「十四人は迷宮の怪物に喰われた」と伝えた。
そして、記憶のない者たちに残った恐怖まで、その嘘の裏付けに使った。
言い換えるたびに、あれは怪物になっていった。私の言葉で。私の口から出た音で。九年ごとに、少しずつ。
「戦の賠償だった。私は、王として──」
ミノス王が声を上げた。
だが、言葉は続かなかった。
口を閉じ、床に浮かぶ光を見つめた。
広間が、凍りついた。
「……僕は、喰われた話として覚えてた」健一が呟いた。
メガネのつるへ伸ばしかけた手を止め、王を見る。
「生きていた人たちを帰さずに、あの子のせいにしたんだ」
莉奈はミノス王を見上げた。
逃げ続けた哀れな親父が、別の輪郭を持って立っている。
「あの子を閉じ込めたのが一番の罪だと思ってた。──生まれる前から、アンタが始めたんじゃないの」
莉奈の声が掠れた。
「妻に仕掛けて、あの子を産ませて、それから『怪物』って呼んだ。今ここで泣いたって、あの子が閉じ込められてた時間は消えない」
──地下への階段の前に立ったことを覚えている。
一段目に足をかけ、三段目で引き返した。
莉奈は拳を握った。
最後の記憶。
──死んだ日のことを覚えている。
王は老いて死んだ。冥界に降り、審判者の座についた。そこで初めて、自分の罪を正しく裁けるか問われた。
裁けなかった。妻に仕掛けて子を産ませ、名も与えず閉じ込め、貢物の嘘を広めた。その罪を正しく裁けなかった。
だから──魔力の身体でよみがえり、逃げた。冥界から逃げ、時を超え、場所を変え、ダンジョンを作らせ、何千年も──自分の判決から逃げ続けた。
伊禮が手を壁から離した。
記憶が途切れた。
莉奈はミノス王を見つめた。
泣いている。
光の粒子が溢れ続けている。
「……名前、つけなかったんだ。あの子に」
長い沈黙のあと、ミノス王が自分から口を開いた。
「つけたかった。──つけたかったのだ。名前を」
繰り返しても、その名は口にしなかった。




