第6話 愚かな自己犠牲と、薄情じゃない人間
「一つだけ、手がある」
ひび割れたアスファルトを見つめながら、健一は静かに言った。その声は、震えを無理やり押し殺しているようだった。黒縁メガネの奥の瞳には、恐怖を塗り潰すような、悲壮な決意が宿っている。
「手って……何よ。早く言いなさいよ」
莉奈は苛立ちを隠せずに急かした。交差点を練り歩く二十体のタロス。残り三分の一を切った魔力のゲージ。どう計算しても、正面突破は不可能だ。そんな絶望的な盤面をひっくり返す「手」が、この戦闘力ゼロのオタク男子にあるというのか。
「あそこを見て。ハチ公前の広場」
健一が指差した先には、主を失って放置された数台の車が、数珠繋ぎになって停まっていた。そのうちの一台、赤いコンパクトカーの運転席のドアが、半開きになっている。
「僕が、あそこまで走る。そして、車のクラクションを鳴らし続けるんだ」
「……は?」
「タロスの聴覚は鋭い。突如鳴り響く大音量に、奴らの注意は確実にあっちに向く。僕が囮になってタロスを引きつけている隙に、莉奈は最短ルートで地下鉄の入り口へ走るんだ。奴らが振り返ったときには、もう莉奈は地下へ逃げ込めているはずだ」
健一は、まるでゲームの攻略法を説明するかのように、淡々と語った。だが、そのプランの決定的な欠落に、莉奈はすぐに気づいた。
「ちょっと待って。アンタが囮になるって、それ、」
「僕の【解析】なら、タロスの視線をかいくぐってあの車まで辿り着けるルートが導き出せる。大丈夫、心配いらないよ」
──大丈夫だから。
一瞬、別の声が重なった。
父が家を出る夜、玄関で母に言った言葉。大丈夫だから、少し離れるだけだから。あの「大丈夫」は嘘だった。二度と帰ってこなかった。
不快感が胸の奥を掠めた。でも、それを考える暇はなかった。
「そういうこと聞いてんじゃないわよ!」
莉奈は声を荒げた。
「アンタが囮になって、タロスを引きつけたら……その後、アンタはどうすんのよ! 戦えもしないくせに!」
健一は答えなかった。ただ、困ったように眉を下げて、力なく微笑んだだけだった。
「莉奈だけでも助かれば、それでいいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、莉奈の頭の中で、何かがプツンと切れた。
「──ふざけんな」
気がついたときには、莉奈は健一の胸ぐらを両手で力いっぱい掴んでいた。
「わっ……!? 莉、莉奈、?」
「ふざけんな!! なに勝手に自己完結してんの!? カッコつけてんじゃないわよ!!」
至近距離で睨みつける莉奈の金髪が、怒りで逆立っているように見えた。掴んだ学生服の襟から、健一の体温と、冷や汗の匂いが伝わってくる。
「莉奈、落ち着いて……! 合理的に考えたら、これしか──」
「合理的って何よ! アタシがアンタを見捨てて一人で逃げて、それで『あー助かった』ってヘラヘラ笑うような、そんな薄情な人間だと思ってんの!?」
叫んだ言葉は、莉奈自身でも驚くほど重く、熱を帯びていた。『ギャル』とは言わなかった。『人間』と。
莉奈の脳裏に、中学の時の記憶がフラッシュバックする。「一人になりたいんだ」と言い残して、キャリーケース一つで家を出ていった父親の背中。残された母親の泣き崩れる姿。勝手に自分を犠牲にするような顔をして、その実、残された側の気持ちなんてこれっぽっちも考えていない。勝手に『お別れ』を決める大人たち。
あんな思いは、もう二度とごめんだ。
一人で生きていくと決めた。だからこそ、今目の前にいる唯一の『パーティーメンバー』を、自分の保身のために切り捨てることなど、できるはずがなかった。
「……アタシは、誰も見捨てない。アンタが勝手に死ぬことなんて、許さない」
莉奈の瞳の奥で揺れる怒りとも悲しみともつかない光を見て、健一は息を呑んだ。そして、自分がどれほど傲慢で、莉奈を傷つける提案をしたのかを悟り、ゆっくりと目を伏せた。
「ごめん。僕が、間違ってた」
「分かればいいのよ、バカ」
莉奈は乱暴に健一の胸ぐらから手を離し、プイッとそっぽを向いた。目尻に滲みそうになった涙を、誰にも見られないように誤魔化すために。
「陽動は、アタシがやる」
「でも、莉奈のMPじゃ……!」
「最後まで聞きなさいよ」
莉奈はそれを拾い上げ、肩に担いだ。
「アタシが突っ込んで、あのデカブツどもを引っ掻き回す。でも全部は倒さない。道を作るだけ。アンタは、アタシが作った道を全力で走って、地下へのシャッターを開けなさい」
「シャッターを……」
「アンタの【解析】スキル、ただのマップ表示だけじゃないっしょ? シャッターの電子ロックの構造とか、パスコードの解除くらいできるんじゃないの?」
健一はハッとして、自分のステータス画面を見つめた。【解析】対象の構造、弱点、ステータスを可視化する。確かに、無機物の構造解析にも応用できる可能性は高かった。
「いけるかもしれない。制御盤さえ見つかれば、強制解除できるはずだ」
「上等。アタシが暴れてる間に開けなさい。二人で一緒に地下へ逃げ込む。それ以外のプランは却下」
莉奈はニヤリと笑った。
それは虚勢ではない、本気の好戦的な笑みだった。残り少ない魔力。二十体のバケモノ。そして、運動神経ゼロの相棒。条件は厳しい。だが、不思議とさっきまでの恐怖は消え失せていた。
「タロスの弱点は?」
莉奈が問うと、健一はメガネの奥の瞳に鋭い光を宿し、即座に答えた。
「関節。特に膝だ。上半身の装甲は分厚いけど、足元は無防備。大振りの攻撃を躱して膝を打ち抜けば、巨体ゆえに自重で体勢を崩す」
「承知!」
莉奈は深く息を吸い込み、パイプを両手で構えた。指先から這い上がるように黄金の雷がそれを包み込み、薄暗い路地裏を照らし出す。
「行くわよ。アタシに置いてかれないように、死ぬ気で走りなさい」
「うん。莉奈も……無茶だけはしないで」
二人は顔を見合わせ、同時に頷いた。
スクランブル交差点での、生存を賭けた数十秒間の攻防戦が、今始まろうとしていた。




