第56話 王冠の刻印
最深部に向かう通路の途中で、空気が変わった。
血と獣の匂い。新宿で嗅いだものと同じ匂いなのに、そこへ焦げた魔力の臭いが混じっている。
通路はその先で広間へ開いていた。
その中央に、巨大な影が立っている。
ミノタウロス。
新宿で鎖を外した、あの子。
十メートルあった身体は八メートルほどに縮み、角の輝きも薄くなっている。だが、赤い目には新宿で莉奈の手の下で泣いた時と同じ、穏やかな光があった。
違っていたのは、額だった。
二本の角の根元を結ぶように、紫色の紋様が王冠の形に焼きついている。
脈打つたび、ミノタウロスの巨体が不自然に震えた。
「あの壁と同じ印」と健一が言った。
莉奈は頷く。
王は迷宮の壁で十四人を引き離し、今度は息子の額に同じ形を刻んでいる。
その背後。玉座のように積み上げられた瓦礫の上に、王冠を被った老人が座っている。
ミノス王。
その少し離れた壁際には、白髪の老人──ダイダロスが力なく座り込んでいた。
十四人が構えた。
ダイが前へ出ようとする。
莉奈が腕で止めた。
「待って。あの子、アタシを覚えてる」
健一は莉奈の半歩後ろで【解析】を開いた。
「身体の動きは僕が見る」
「じゃあアタシは、あの子の目を見る」
莉奈はポールを下ろしたまま、一歩踏み出した。
「覚えてる? アタシだよ。新宿で、アンタの鎖を──」
ミノタウロスの右腕が跳ね上がった。
「右腕!」
意思のある動きではなかった。見えない糸で吊り上げられたような、不自然な速さ。巨大な拳が莉奈へ振り下ろされる。
「莉奈!」
莉奈は横へ跳んだ。
拳が床を砕き、石片と粉塵が通路を埋めた。着地した足元まで亀裂が走る。
赤い目が、莉奈を見ていた。
助けを求めている。なのに身体は、次の一撃を準備している。
「操られてるの?」
伊禮が壁に掌を当て、【共鳴】を広げた。石を伝って拾った感情に、静かな顔が初めて歪む。
「心は拒んでる。攻撃したくないって叫んでる。でも、身体だけが王の命令を聞いてる」
ミノス王が玉座から見下ろした。
「それは私の子だ。私の迷宮にいる限り、私の命に従う」
健一が【解析】を起動した。ミノタウロスの輪郭に、何重もの警告表示が重なる。
『個体名:未登録』
『管理権限:MINOS』
そして、十四人のステータス欄の下に、見たことのない赤い表示が点滅した。
『緊急退避経路:未接続』
健一の顔から血の気が引いた。
「ここでHPがゼロになっても、正常に外へ出される保証がない。記憶を失って気絶するだけで済むかも──分からない」
「なら、ゼロにしなきゃいい」
莉奈がポールを構え直した。
「あの子も、アタシたちも。誰のHPもゼロにしない」
「八メートルの怪物相手に、手加減する気か」
ダイの問いに、莉奈は首を振った。
「手ぇ抜いたら、こっちが死ぬ。だから全力で止める。──殺さないだけ」
最初に動いたのは金子だった。
「【道化】!」
金子が両腕を広げ、笑顔を作る。
ミノタウロスの赤い目が金子を捉えた。
怪物としての本能が、最も目立つ標的へ引き寄せられる。
「来た! 右からや!」
大阪の【看破】が肩の動きを読む。
ダイの【測距】が拳の到達点を測り、
テツの【測質】が床の強度を拾う。
「金子、左へ二・四メートル!」
ダイの指示で金子が跳ぶ。
拳は予測どおり、誰もいない床へ落ちる──はずだった。
落下の途中で、ミノタウロスの肘があり得ない方向へ折れた。
拳の軌道が九十度曲がる。
自分の関節を壊しながら、金子を追った。
「あかん、二つの動きが重なってる!」
大阪が叫ぶ。
「金子を追う本能と、王様の命令が途中で入れ替わっとる! 予備動作が嘘になる!」
和田の【すり替え】が拳の軌道を横へずらした。
巨腕が金子の肩を掠め、壁へ突き刺さる。
轟音。
金子が吹き飛び、床を転がった。
「金子!」
山岸が前へ出る。
小保内の覚醒【バフ】を受けた金属バットが、ミノタウロスの膝裏を打った。
ダイも反対側から蹴りを入れる。
小保内はそのまま山岸の背に触れ続け、強化を切らなかった。袖口の中で震える指を握り込む。
汐沢が足元の床を【腐食】させた。右足が石床へ沈み、巨体が傾く。
止まる。
そう思った瞬間、額の王冠が紫色に光った。
ミノタウロスは沈んだ右足を、皮膚ごと床から引き抜いた。
石に残った血が黒く湯気を上げる。自分の身体が壊れることすら、命令は許してくれない。
赤い目から、涙が落ちた。
「こんなん、止め方が──」
金子が起き上がろうとした。
ミノス王の指が金子を示し、ミノタウロスの王冠の紋様が強く光った。
ミノタウロスが山岸とダイを振り払い、負傷した金子へ向き直る。
八メートルの巨体が、床を蹴った。
逃げ切れない。
振り上げられた拳が、
金子の視界を覆った。




