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第55話 壁画の懺悔

 一般人の救出を終え、十人は深層に向かった。


 途中で北九州組の佐藤(さとう)と汐沢(しおざわ)、ヨロン島組の伊禮(いれい)と輪島(わじま)と合流し、十四人体制になった。


 救出と、収縮のたびの待機と、崩れた通路の迂回。


 想像以上に時間を食っていた。


 スマホの時刻は午後四時を回っている。


 朝六時半の発生から、もう九時間以上が経っていた。


 北九州組とヨロン島組は、ミノス王の強制召喚でダンジョン内に飛ばされていた。名古屋組のような「偶然」ではなく、意図的な呼び寄せだ。


 四人ともすでに戦闘態勢で、槍を持つ土色の人型を何体か倒していた。兜の奥に目鼻は見えず、正体が分からないため、ひとまず「守衛」と呼んでいた。


 佐藤が莉奈に挨拶した。穏やかな声。


「北九州の佐藤です。渋谷の方ですよね」


「神崎莉奈。アンタたち、ここに何時間いるの」


「九時間ほど。汐沢と二人で、守衛を七体ほど」


 佐藤の服に赤茶けた土がついていた。だが彼女の表情は穏やか。戦闘後も声のトーンが変わらないタイプだ。健一に少し似ている。分析が先に来る人間。


 汐沢が無表情のまま壁に寄りかかった。


「汐沢。よろしく」


 彼女の手が壁面に触れている。触れた箇所が、微かに変色していた。【腐食(ふしょく)】の痕跡。不安定な壁を溶かして、安全な通路を確保していたのだ。


 伊禮が壁に手を当てた。彼は目を閉じている。石に残った感情の残響を拾っている。


「この石──ヨロン島の最深部にいたコピーと同じ匂いがする。でも、もっと濃い。ミノタウロスが近くにいる」


 伊禮が目を開けた。黒い瞳の奥に、不思議な光がある。


「あの子……喜んでる。でも、怖がってもいる。両方、同時に」


「あの子って──ミノタウロスのこと?」


「うん。石を通じて、あの子の感情が伝わってくる。嬉しいのは、誰かが来たこと。怖いのは──また鎖に繋がれること」


 莉奈は拳を握った。


 新宿で外した鎖。またかけられるかもしれないという恐怖。──自由を知った後の恐怖は、知らなかった時の何倍も重い。


 輪島が通路の奥に向かって声を飛ばした。低い、地鳴りのような男の声。数秒後、反響が返ってきた。


「この先に広い空間がある。天井が高い。壁面の温度は、変化してる。何かが、呼吸してるみたいに」


 輪島の【反響(はんきょう)】は、返ってくる音の質の変化まで拾う。壁の向こうから返る反響が、一定の間隔で低く、重くなる。呼吸。生き物の呼吸だ。


 十四人。


 全員揃った。


 健一が十四人を見回し、何かに気づいたように眉を寄せた。


「男が七人、女が七人。──神話で迷宮に送られた十四人と同じだ」


 莉奈は仲間たちを見回した。


 数だけじゃない。男女の内訳まで、神話をなぞっている。


 深層の通路を進むと、壁面が変わった。


 不安定な迷宮の壁が、一区画だけ──安定していた。


 石造りの壁面に、壁画が描かれている。


「これ──ダイダロスの筆だ」


 健一が息を呑んだ。


 新宿の壁画と同じ筆致。だが内容が違う。


 東京駅ダンジョンの壁画は、ダイダロスの自伝だった。


 ミノス王に迷宮を作らされた経緯。

 イカロスのために翼を作った日。

 墜落。

 受け止めようとして、手が離れた瞬間。

 何千年の孤独。

 新宿で七人の若者に助けられたこと。

 イカロスとの再会。


 ただ、墜落の場面と、その後の孤独の間だけ──壁一枚分が白く残っていた。


 描かなかったのではない。


 描けなかったのだ。あの瞬間だけは、絵にすることすらできなかった。


 そして──裏切り。


『ミノス王が来た。イカロスを殺すと言った。私は断れなかった。東京駅に迷宮を作り始めた。だが途中で手を止めた。止めたのは──あの子たちの顔が浮かんだからだ。私を信じてくれた七人の顔が』


 壁画の最後に、莉奈たち七人の姿が描かれていた。


 拙い筆致だが、一人一人の特徴が捉えられている。


 莉奈の金髪。

 健一のメガネ。

 金子の笑顔。

 大阪の鋭い目。

 和田の片手。

 山岸のバット。

 小保内の、存在感の薄さまで描かれていた。


 彼女の輪郭だけが、他より淡い線で描かれている。それが小保内らしさだと、ダイダロスは理解していた。


 壁画の下に一行。


『この子たちを巻き込んだことだけは、どうか許してほしい』


 大阪が壁画の前で立ち止まった。

 彼女は長く黙ったまま、壁画を見つめていた。


 金子が大阪の袖を引いた。


「大阪ちゃん」


「……描いてる暇あったら、先に言えや」


 声が震えていた。怒りではなかった。


 金子は大阪の袖をつかんだまま、壁画の中の自分を見た。

 そこでも金子は笑っていた。


「……笑ってる」


 金子も笑った。彼女の目は、今にも泣きそうだった。


 和田が壁画に近づいた。自分の姿を見つめている。


 片手が描かれていた。もう一方の手は──描かれていなかった。ダイダロスは知っていた。和田の【すり替え】が片手で発動することを。だから片手だけ描いた。


「……うまいな、このオッサン。自分の利き手まで把握しとるやん」


 和田は笑った。でも、彼の目元は赤かった。


 山岸は、バットを構えた自分の姿の前で足を止めた。

 彼は描かれた仲間の顔を、一人ずつ確かめるように見ている。


「……忘れてなかったんだな」


 小保内は壁画の自分を見つけて、小さく息を呑んだ。


 輪郭だけが他より淡い線で描かれている。存在感の薄さが、線の薄さで表現されていた。──でも、描かれていた。消えてはいなかった。薄くても、確かに七人の中にいた。


「……私のこと、見えてたんですね」


 小保内が呟いた。存在感が薄い自分を、ちゃんと見てくれていた人間がいた。その事実が、小保内の目に涙を浮かばせた。


 健一は壁画の自分を見て、メガネを指で押し上げた。


 壁画の中の健一もメガネをかけている。フレームの形まで正確だった。そして、壁画の健一の手には、紙片が描かれていた。テセウスの糸の代わりに置いた、あのメモ帳の紙片。


「ダイダロスさん、紙片のことまで覚えてたんだ。あの人──本当に、全部見てたんだ」


 莉奈は壁画の自分の姿を見つめた。金髪が風に揺れている構図。


 ダイダロスの目には、莉奈の髪は「バリア」ではなく「旗」に見えていたのかもしれない。先頭に立って、風を受けて、なびく旗。


 少し離れたところで、ダイたち七人は黙って見守っていた。


 壁画の最後に描かれた七人へ向けた時間だと、分かっているようだった。


 壁画の下にもう一つ、小さな落書きがあった。


 莉奈は目を凝らした。


 七人の足元に、フラペチーノのカップが一つ。──ダイダロスは、あの飲み物のことも知っていたのだ。


「行くわよ。この先に、あの爺さんがいる」


 壁画の区画を出ると、床の継ぎ目に紫の光が走った。


 王冠の形。さっきまで壁画の前にはなかった印だ。


「止まって」


 健一が【解析】を開いた時、通路が横へ滑った。


 いつもの収縮より速い。


 石壁が十四人の間に割り込み、莉奈は反射的に健一の手首を掴んで手前へ引いた。渋谷では届かなかった手が、今は迷わず届いた。


 壁が閉じた。


 こちら側には莉奈、健一、金子、大阪、和田、山岸、小保内。


 向こう側にはダイ、テツ、マーサ、佐藤、汐沢、伊禮、輪島。


 渋谷で一緒に戦った七人と、それ以外の七人に分かれた。


「ダイ! 聞こえる?」


 莉奈が壁を叩いたが、返事はない。


 スマホも圏外だった。


 健一の地図には、二組を繋ぐ通路だけが白く抜けている。


「王冠の印が光ってから動いた。たまたま崩れたんじゃない」


「王の仕掛けってことね。──探すわよ。十四人でここまで来たんだから」


 七人が曲がり角へ走った。


 背後で壁が軋み、さっき通れた道が潰れる。


 二分前の地図を信じて戻れば、そこにはもう床がない。


 前方からダイの声がした。


「こっちだ!」


 莉奈が足を速める。


 健一が袖を引いた。


「待って。声の下に床がない」


【解析】の輪郭が途切れた先で、人間の声だけがもう一度響く。


 壁の染みが剥がれ、エムプーサが姿を現した。


 莉奈は【雷纏(いかづちまとい)】を乗せたポールでその進路を叩き、七人の前に立つ。


 倒すより先に、通路へ追い込ませないことを選んだ。


「健一、今の地図なら、どっち」


「右。……いや、右の線はもう古い」


 莉奈は左の壁に掌を当てた。熱が増している。


 次の収縮で動くのは、この壁だ。


「じゃあ左を抜ける。アンタは足元見て」


 健一が頷く。


 莉奈が熱い壁を指し、健一が床の裂け目を告げる。


 金子たちは二人の短い声に合わせて、閉じかける通路を走り抜けた。


 別の通路から、足音らしい振動が石を伝わってきた。


 莉奈はポールで壁を三度叩いた。


 返事はまだない。


 一方、ダイたち七人は別の通路へ押し流されていた。


 石床の目地から土色の守衛が二体起き上がり、槍で退路を塞ぐ。


 ダイが槍の届く距離を測り、

 テツが踏んでも崩れない床を見つける。

 マーサの【測流】が、次の収縮までのわずかな間を告げた。


「正面から倒す時間はない。走るぞ」


 ダイの合図で汐沢が壁の継ぎ目を【腐食】させ、佐藤は【編纂(へんさん)】で曲がり角を通った順を繋いだ。


 守衛の槍がテツの頬を掠めたが、誰も足を止めない。


 狭い脇道に滑り込み、守衛を置いて先へ出た。


 輪島が立ち止まり、壁に耳を当てた。


 【反響】に、三度の硬い音が混じる。


 こちらから二度、石を叩く。


「莉奈たちだ。間に壁が一枚ある」


 伊禮が掌を添えた。


「向こうにいる。みんな、こっちを探してる」


 汐沢が同じ継ぎ目に手を当てる。石が軟らかくなった。


 反対側では、莉奈が二度の返事を聞き、健一が崩れない下端を【解析】で選んで示す。


「そこなら、開いても天井は落ちない」


 莉奈のポールが下端を叩いた。


 雷は細く抑え、継ぎ目だけを割る。


 石が崩れ、七人の顔が見えた。


「全員、いる?」


「こっちは七人。そっちも七人やな」


 大阪の声に、ダイが短く頷いた。


 テツの頬に浅い傷はある。


 だが十四人とも、自分の足で立っていた。


 背後の石壁が裂け、さっき振り切った守衛の一体が槍を差し込んできた。


 兜の奥には、目鼻のない乾いた土の顔。胸のひびに、白い牙のような筋が見える。


 健一が【解析】を向ける。


『種別:スパルトイ(迷宮再現体)』


「スパルトイ。テーバイの竜の牙から生まれた兵士を、迷宮が写してる」


「由来はあと! 槍、右!」


 莉奈が【雷纏】のポールで槍を外へ弾く。


 汐沢がスパルトイの足元を【腐食】させると、土色の身体が膝まで沈んだ。


 次の収縮で壁が閉じ、スパルトイの姿が通路の向こうへ消えた。


 健一は地図に残る通路を確かめた。


 莉奈が先の壁へ目を向けると、彼はその半歩後ろに並ぶ。


「帰り道は、僕が見てる」


「じゃ、アタシは前を見る。今度は一人で走んないから」


 十四人分の足音が、同じ通路に戻った。


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