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第54話 空回りの勇気

 二人目の一般人は、もっと深い場所にいた。


 若い男性。


 スーツ。営業鞄を抱えたまま、通路の角に座り込んでいる。怪我はないが、完全にパニックで動けなくなっていた。


 ダイが声をかけた。


「助けに来ました。ついてきてください」


「嘘だ。嘘に決まってる。さっきも声が聞こえて行ったら化け物だった。もう騙されない」


 エムプーサの擬態だ。人の声を模倣して獲物をおびき寄せる、新宿でもあった手口。この男性は一度騙されかけている。


「嘘じゃないです。俺たちは人間です。見てください、ほら──」


 ダイが自分の手を見せた。だが男性は目を瞑ったまま、耳を塞いでいる。


 金子が前に出た。


「あの、うちら本当に人間で──」


「うるさい! 来るな!」


 金子がたじろいだ。笑顔が崩れかけている。


 大阪が金子の肩を掴んだ。


「今のアンタの笑顔は、あの人には届かへん。怖がってる人間に笑いかけても、不気味に見えるだけや」


 正しい。でも、残酷だった。


 金子の笑顔が──武器にならない。


「じゃあ、どうすればええん」


「見せるしかない」


 大阪が通路の奥を指差した。壁面にエムプーサの染みが蠢いている。


「あれを倒すとこ見せたら、ウチらが人間やって分かる」


 莉奈が頷いた。


 ポールを構え、エムプーサに向かって歩き出した。男性の目の前で、壁から実体化したエムプーサを、雷の一撃で叩き潰した。光の粒子が散る。


 男性が、初めて目を開けた。


「……人間、なのか」


「当たり前っしょ。化け物がフラペチーノ飲むわけないでしょ」


 化け物は、意味不明なことを言わない。


 男性が立ち上がった。まだ震えているが、足は動く。


 三人目と四人目は、一緒にいた。


 通路の角を曲がった先に、三十代の男性が男の子を抱きかかえてうずくまっていた。父親と息子。父親は背中を丸めて、子供を壁との間に挟むように庇っている。背中に深い擦り傷。天井の崩落から子供を守った跡だった。


「大丈夫だから。大丈夫だから」


 父親が繰り返していた。同じ言葉。声が枯れかけている。何十分も、同じ言葉を言い続けていたのだろう。


 莉奈の足が止まった。


 ──大丈夫だから。


 父が家を出る夜に言った言葉と、同じだ。


 でも、この父親の「大丈夫だから」は嘘じゃない。背中を怪我してまで、子供を守っている。この「大丈夫」には身体が伴っている。


「助けに来ました。お子さんと一緒に、外に出られます」


 健一が静かに話しかけた。


 父親が顔を上げた。目の下に隈(くま)。唇が乾燥してひび割れている。だが、目だけは生きていた。子供を守るために、目だけは最後まで生きている。


「本当に……出られるのか」


「出られます。僕たちが案内します」


 父親は子供をゆっくりと抱き上げた。男の子は五歳くらい。父親のシャツの裾を握りしめて離さない。


「パパ、怖い」


「大丈夫だから。──この人たちが、助けてくれるから」


 莉奈はその背中を見つめた。傷だらけの背中。でも、子供を抱く腕は震えていない。


 答えは出ないまま、莉奈は父子を排出ポイントに案内した。


 五人目と六人目も、一緒にいた。


 男子高校生が、おばあちゃんの手を握って座り込んでいた。孫と祖母。おばあちゃんは足が悪いらしく、一人では歩けない。高校生が両腕でおばあちゃんを支えている。


「おばあちゃん、大丈夫? 大丈夫だから」


 また、あの言葉。


 この場所では、「大丈夫だから」が祈りのように繰り返されている。


 山岸が高校生に声をかけた。


「おばあちゃん、俺が背負います」


 高校生がためらった。


「……この人、誰?」


「味方。信じてくれ」


 山岸がおばあちゃんの前にしゃがんだ。


 おばあちゃんは小さな声で「お兄ちゃん、ありがとうねえ」と言った。


 山岸が背負い上げると、高校生はおばあちゃんの手をまだ握ったまま離さなかった。背負われても、手は繋がっている。


 莉奈はその手を見つめた。


 離さない手。渋谷で、健一の手を掴めなかった自分を思い出した。今なら──掴める。たぶん。


 七人目──


「血の匂いがする」


 山岸の【探知】が、通路の奥に一人分の反応を拾った。近づくにつれ、鉄のような血の匂いが鼻を突いた。


 駆けつけると、通路の崩落に巻き込まれた老人が、瓦礫に足を挟まれて倒れていた。額から血が流れている。意識が朦朧としている。不完全な迷宮の構造変化で天井が崩れ、逃げ遅れたのだ。


「足が──抜けない──」


「和田!」


 和田が駆け寄った。


 瓦礫と老人の足の位置を【すり替え】て、足を引き抜く。だが、傷が深い。出血が止まらない。


「応急処置しないと。小保内さん、バフで止血できる?」


「試したことはないですが──」


 小保内が老人の傷口に手を当て、覚醒【バフ】を傷口周辺だけに絞った。


 身体機能の強化。止血能力を一時的に底上げする。血の流れが緩やかになった。完全には止まらないが、時間は稼げる。手を離した小保内は短く息を整え、何事もなかったように微笑んだ。


「排出ポイントまで運ぶ。急いで」


 ダイが老人を背負った。


 修学旅行のリュックを投げ捨てて、血まみれの老人を背負って走る。名古屋のトライアルリーダーの背中は、今日は──命令する背中ではなく、運ぶ背中だった。


 通路を走りながら、ダイは名古屋の迷宮を思い出していた。あの時、倒れた仲間は光に包まれ、手を伸ばす前に消えた。背負う暇も、振り返る時間もない。そのたびにダイは、残った人数だけを数えて先へ進んだ。


 今日は、背中に老人の体温がある。


 重い。人間一人分の、数字にはできない重さ。名古屋で十一人が消えた時には、知ることのできなかった重さだった。


 排出ポイント。


 老人が紫色の光に包まれ、外に弾き出された。外には救急車が待っているはずだ。ダイの背中から、重さが消えた。──でも、背中に残った温度は消えなかった。


 健一と山岸が、通れる範囲をもう一度照合した。【解析】にも【探知】にも、人間の反応は残っていない。


「……これで全員だ」


 健一の言葉に、十人がようやく息をついた。


 ダイは自分のTシャツを見た。老人の血で赤く汚れている。修学旅行に着てきた、名古屋城のプリントTシャツ。テツに「ダサい」と言われた安物。──それが今、誰かの血で染まっている。


 莉奈が、老人の血で汚れたダイのTシャツを見た。


「アンタ、名古屋でもこうだったの?」


「いや。名古屋では──背負う前に、みんな消えた。俺は人数だけ数えて進んだ」


 ダイの声は平坦だったが、その目は──濡れていた。


 テツがダイの横に立った。何も言わず。


 マーサがダイの反対側に立った。


 三人の名古屋組が、


 黙って並んで立っていた。


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