第53話 届かない声
最初の一般人を見つけたのは、三百メートル先の行き止まりだった。
中年の女性が、壁にもたれて座り込んでいた。制服の上着を頭から被り、身体を丸めて震えている。右足首が不自然な角度で曲がっていた。骨折。ダンジョン化の衝撃で転倒したらしい。
「大丈夫ですか? 助けに来ました」
金子が駆け寄った。
女性は顔を上げ──叫んだ。
「来ないで! 化け物! 来ないで!」
金子の笑顔が凍った。
女性の目には恐怖しかなかった。
数時間前まで普通に駅の地下を歩いていた人間が、突然ダンジョンに閉じ込められ、壁が揺れ、通路が変わり、暗い場所から化け物の唸り声が聞こえてくる。そこに知らない人間が現れても、信じられない。莉奈たちを、モンスターの一種だと思っている。
「化け物ちゃいます、人間です。助けに来たんです」
金子が両手を広げて見せた。でも女性は叫び続けた。声が通路に反響し、壁の向こうでエムプーサが反応する気配がした。
「金子、離れろ。声で敵を呼び寄せる」
ダイが金子を引き戻した。
金子が悔しそうな顔をする。
「でも、あの人怪我してる──」
「分かってる。だが、今のあの人には俺たちが見えてない。恐怖しか見えてない」
ダイの声に、経験者の重みがあった。名古屋で同じ状況を何度も見てきた。
小保内が一歩前に出た。
「私が行きます」
「先輩?」
「【ハイディング】で気配を薄くすれば、あの方の恐怖を刺激しません。近づいて、足を固定して、それから──」
「先輩、危なくないの?」
「危険はあります。でも──あの方は、一人で怖がってる。一人で怖がってる人の近くに行くのは、存在感が薄い人間の仕事です」
小保内は微笑んだ。
新宿の時もそうだった。目立たないこと、気配が薄いことを、小保内は弱点だと思っていない。武器だと理解している。
小保内は気配を消して女性に近づいた。足音がない。呼吸が読めない。視界の端にいても、意識に入らない。存在感の薄さが、ここでは最強の武器になる。
怯えた人間の視界に入らずに、二メートルまで近づいた。そっと傍に座り、上着の裾を──引かなかった。代わりに、自分のハンカチを女性の手の届く場所に置いた。
女性が、そのハンカチに気づいた。化け物はハンカチを持たない。白い、レースの縁取りのある、普通のハンカチ。
「……これ……」
女性が手を伸ばした。
ハンカチに触れた。──布の感触。人間の持ち物。温度。
小保内がそっと声を出した。囁くような声。
「大丈夫ですよ。人間です。助けに来ました」
女性が小保内を見た。──叫ばなかった。
気配が薄すぎて、脅威として認識されなかった。でもハンカチがある。人間の匂いがする。
「……助けて。足が動かないの。お願い」
涙がこぼれた。恐怖の涙ではない。安堵の涙。「人間がいる」という安堵。
小保内が女性の右足首を確認した。骨折。動かせない。排出ポイントまで運ぶ必要がある。小保内は首に巻いていた薄手のストールを外して、足首を簡易固定した。
「山岸さん、お願いします」
山岸が女性を背負い上げた。女性は山岸の背中にしがみつき、声を殺して泣いていた。小保内のハンカチを、まだ握りしめていた。
その後ろで、通路の壁面からエムプーサが実体化した。女性の叫び声に反応して寄ってきたのだ。
「来た。──莉奈」
「分かってる」
莉奈がポールを構え、エムプーサの触手を叩き切った。金色の雷光が通路を照らし出す。女性が莉奈の背中を見つめた。
「あの子……光ってる……」
雷を纏った少女がモンスターを蹴散らす光景を見て、女性の目から恐怖が──消えた。代わりに、信じられないものを見る目。でも、「こちら側」の人間だと分かった目。
「大丈夫。あの金髪の子が、一番強いんです」
小保内が微笑みながら言った。
女性がハンカチで涙を拭いた。




