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第50話 お願いの、その先

 ドームの内側。


 ダイは、名古屋ダンジョンで覚えたはずの言葉が、ここでは通じない現実に向き合っていた。


 命令ではなく、お願いする。

 役割ではなく、名前を呼ぶ。

 仲間の答えを待つ。

 名古屋ダンジョンの最後に、マーサとテツから教えられたことだ。


 それでも、東京駅の地下に残った八人の一般人は、誰一人として動いてくれなかった。


「お願いします、こっちに来てください。出口はこっちなんです」


 テツも冷静に呼びかけるが、

スーツ姿の中年男性が「うるさい! 子供の言うことが信じられるか!」と怒鳴り返す。OLが壁にへたり込んで泣いている。大学生風の男が一人で走り出そうとして、通路の角でエムプーサの黒い影を見て叫び声を上げ、引き返してくる。残る五人も、互いの顔を見て立ち尽くしたままだ。


「ダイ。駄目だ。パニックで正常な判断ができなくなってる」


 テツが低い声で言った。


 名古屋で最初に集まった十四人も怯えていた。だが、あの時のダイは誰より先に名乗り、全員の名前と能力を聞き、恐怖が固まる前に隊列を作った。ここでは、ただの見知らぬ高校生だ。


 名古屋では、ダンジョン化に巻き込まれ、選別後に十四人が内部へ取り残された。全員がダイの指示に従ったが、仲間はHPがゼロになるたびに光に包まれ、行き先も分からないまま一人ずつ消えていった。


 十一人の生存が分かったのは、三人が迷宮を突破して地上へ戻った後だ。十一人は全員が意識を失ったまま搬送され、目を覚ましても迷宮内のことを覚えていなかった。仲間が消えるたび、ダイの言葉から名前が消え、仲間は「前衛」「斥候(せっこう)」「防壁」と役割に変わっていった。命令は身体を動かせても、信頼までは作れない。


 命令だけでは駄目だ。ダイは知っている。


 だが、「お願いします」と言い換えるだけでも足りない。信じてもらうには、信じる材料を自分から差し出さなければならない。


 ダイは自分の手を見た。武器がない。


 ステータス画面は微かに復活しているが、【測距(そっきょ)】は不完全にしか作動しない。スーツも革靴もない。ただの、修学旅行のジーンズとスニーカー。


「テツ。俺たちの名前、あの人たちに名乗ったか」


「いや」


「名乗ってなかった。最初から『お願いします、こっちへ』しか言ってない。──言葉だけ変えても、俺が誰か分からなきゃ信じられないよな」


 ダイは立ち上がった。パニックの八人の前に歩み出た。


 名古屋で最初にしたのは、全員の名前と年齢を聞くことだった。なのに今日は、焦って正しい道だけを示そうとして、その最初の一歩を飛ばしていた。


 完全なデータはない。スキルも不安定だ。武器もない。


 ──それでも、自分の名前と、名古屋で犯した過ちなら隠さず話せる。


「──俺は、ダイ。高校二年。名古屋から修学旅行で来た。こっちはテツ。同じクラス」


 八人がダイを見た。怒鳴りつけた中年男性も、泣いていたOLも。


「名古屋でも、ダンジョン化に巻き込まれました。選別された十四人が内部に取り残されて、十一人は戦いの途中でHPがゼロになり、光になって消えた。あの時は、死んだと思いました。迷宮を突破して外へ戻ってから、全員が生きていると分かりました。でも全員が意識を失っていて、目を覚ました後も中のことは覚えていませんでした」


 声が震えた。ダイは、名古屋の夜を語るのが初めてだった。


 テツですら、聞いたことがない。


「途中から、俺は名前じゃなく役割で呼びました。残り何人かだけ数えて、正しいと思う命令を出し続けた。今も、絶対に安全だとは言えません。分かっていることと、分からないことを隠さず話します」


 ダイが、頭を下げた。


「お願いします。──俺たちと一緒に来てください。あの通路の奥に、外へ繋がるポイントがあります。一人で走り出すより、ここにいる全員で動いた方が安全です。俺とテツが前を歩きます。化け物が出たら、俺たちが先に対処します」


 頭を下げたまま、数秒間。


 中年男性が、最初に立ち上がった。


「……本当に、出口が分かるのか」


「分かります。名古屋の時と、構造が似てるから」


 嘘ではない。


 完全な確信でもない。


 ダイは、確信のない部分まで強く言い切るのをやめた。


 名古屋の突破で覚えた「お願い」を、今度は名古屋で犯した過ちと、今も分からないことごと差し出した。


 OLが立ち上がった。大学生も。残る五人も。


 テツが小さく呟いた。


「ダイ。今度は、名古屋のことまで話したな」


「黙れ」


 八人を連れて、ダイは通路の奥に歩き出した。排出ポイントはダイの【測距】が微かに捉えた空間の歪みの先にある。一般人を一人ずつ、そこに送り込めばいい。


 一人目の中年男性が排出ポイントに触れた。紫色の光が包み込み、男性の身体が薄くなっていく。外に弾き出される。


その瞬間、ドームの外にいる莉奈の視界に、ステータス画面が浮かんだ。人数表示が「14/14」から「13/14」に切り替わった。


 不完全な迷宮だからか、今回はドーム越しでもステータス表示が共有され、スマホの通信も不安定ながら生きていた。渋谷では圏外になった回線が、ここでは細い糸のように外と中を繋いでいる。


「健一! スロットが一つ空いた!」


「見えてる! 莉奈、今なら一人入れる!」


「アタシが行く」


 莉奈はドームに手を突っ込んだ。


 今度は弾かれなかった。


 紫色の壁面が莉奈の身体を飲み込み──


 視界が暗転した。


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