第43話 地上の星
新宿の夜空に、九人が放り出された。
都庁の前の広場は、別の意味で騒然としていた。
パトカーが何台も停まり、消防車と救急車が並んでいる。
報道のバンがバリケードの外に密集し、カメラのライトが夜を切り裂いている。
紫色のドームは消えていた。
だがその痕跡が、ここで何が起きたかを物語っている。
地面のひび割れ、砕けた街灯、変形したガードレール。
渋谷の時は、対応が追いつかなかった。二度目の今回、警察と自衛隊は即座に展開していた。迷彩服の自衛官がバリケードを張り、救急隊員がトリアージの準備を整えている。紫のドームに手を出せなくても、外で待つことはできる。
ドームが消えた瞬間、バリケードの向こうから人が走り出した。
警察官が「下がってください」と叫んでいるが、止まらない。
家族だ。
金子のスマホが鳴った。
「あ──おかん!」
金子が電話に出た瞬間、崩れた。さっきまで「痛くないで」と笑っていた金子が、母親の声を聞いた途端にボロ泣きした。
「うん、うん。大丈夫。うん。怪我? ちょっとだけ。ちょっとだけやって。──泣いてへんよ。泣いてへんって」
泣いてる。完全に泣いてる。
大阪が金子の隣で腕を組み、黙って見守っていた。
大阪のスマホも鳴っているが、出ない。金子が先だ。
莉奈は金子の泣き声を聞きながら、自分のスマホを見た。
通知が流れ込んでくる。母親からのメッセージ。
『莉奈、大丈夫?』
『新宿にいるの?』
『返事して』
金子には電話をくれる母がいる。
莉奈の母はメッセージだけ。
──でも、それでもいい。「大丈夫?」と言ってくれた。
その一言は、初めてだ。
指が動いた。
『大丈夫。今から帰る』
少し迷って、もう一行。
『晩ごはん、あったら食べたい』
既読がついた。三秒後に返信。
『作って待ってる』
短い一文。でも、その一文に、莉奈は初めて母親の声を聞いた気がした。
「健一、アンタは? 家に連絡した?」
健一はスマホを手に持ったまま、広場の人混みを見つめていた。
「メッセージは入れた。『無事です』って」
「返事は?」
「母さんから『分かった』」
「お父さんは?」
健一が一瞬だけ黙った。
「……なし」
健一の家は、会話のない家庭だった。
父も母もいる。食卓に三人が座る。でも、テレビの音だけが流れている。父と最後にまともに話したのがいつか、健一は思い出せない。小学校の参観日? いや、あれは母だけ来た。運動会? 父は仕事だった。──もっと前。もっと小さい頃。覚えていない。
健一が歩き出そうとした時、莉奈は見た。
広場の端。
バリケードの向こう側で、背広姿の男が──振り返って、歩き出すのを。
サラリーマンの背中。少しだけ猫背で、歩き方に癖がある。肩を内側に巻き込むような歩き方。
健一と、同じ癖。
健一も見ていた。足が止まっていた。
「……来てたんだ」
声に感情がなかった。
怒りでもなく、悲しみでもなく。
ただ事実を確認するような声。
新宿のニュースを見て、駆けつけたのだろう。
ドームの外で、息子が出てくるのを待っていた。でも、出てきた息子に声をかけられなかった。何を言えばいいか分からなかったのだ。だから背中を向けて、帰っていく。
「追いかけないの?」
「追いかけて何を言えばいいか、分からない。──向こうも同じだと思う」
来たのに、帰った。「来なかった」より切ない。
「来たのに何も言えなかった」は──莉奈の父と同じだ。電話をかけて、何も言えず切った。来て、何も言えず帰った。
莉奈は健一の横顔を見た。
泣いていない。
泣き虫の健一が、泣いていない。
それが一番痛かった。
「……帰ろう。フラペチーノは──また今度ね」
「うん。また今度」
健一が「また」と言った。
莉奈は一瞬だけ固まった。
──でも今度は、大丈夫だった。この「また」は本当に「また」だから。
莉奈はスマホをポケットにしまい、夜空を見上げた。




