第41話 数千年ぶりの抱擁
展望室のガラスは割れていた。
夜風が四十八階の高さから吹き込み、莉奈の汗と埃にまみれた金髪を乱暴に揺らした。眼下に広がる新宿の夜景が、地上の星のように瞬いている。ビルの灯り、車のヘッドライト、ネオンの看板。
莉奈は足を止めた。
展望室の奥に、人影があった。
窓際の床に膝を抱えて座り込んでいる老人。長い白髪。深い皺が刻まれた顔。壁画に描かれていたのと同じ、疲れ果てた目。だが壁画よりもずっと生きている目。何かを待ち続けている目。
ダイダロス。
老人がゆっくりと顔を上げた。八人の人間が、自分の牢獄に入ってきたことに気づく。目が見開かれた。
古代ギリシャ語が、迷宮の自動翻訳を通じて全員の脳に届いた。
「お前たちは──試験を、突破した者か」
声が震えていた。
希望を信じることに、疲れ切った声。何千回も期待して、何千回も裏切られた声。
「そう。渋谷と梅田。──で、アンタが出題者?」
莉奈が一歩前に出た。
「そうだ。私が──全てを仕掛けた。迷宮を作り、怪物を配置し、人間を巻き込んだ。私の罪だ」
加害者の声だった。
自分がやったことの全てを自覚し、その重さに潰されそうな声。
大阪が一歩前に出た。
「罪、って自分で言えるんやね」
声が冷たかった。いつものツッコミの鋭さではない。怒りだ。
「ウチの仲間は、アンタの『試験』で何回も死にかけた。金子は腕中痣だらけや。莉奈ちゃんも渋谷でボロボロになって。渋谷でも梅田でも、人が死んでてもおかしくなかった。──それ、全部アンタが仕掛けたんやろ」
ダイダロスは答えなかった。
顔を上げて、大阪の目を真っ直ぐに見つめた。逸らさなかった。
「息子を助けたかったんは分かる。でもな。自分の子供のために、他人の子供を危険に晒したんや。それは──謝って済む話ちゃうで」
金子が「大阪ちゃん」と小さく呼んだが、大阪は止まらなかった。
「ウチの【看破】は嘘を見抜く。アンタの今の言葉に嘘はない。本気で罪だと思ってる。でも──それと、ウチらが許すかどうかは別の話や」
沈黙が落ちた。
松明の炎が揺れた。
ダイダロスが、ゆっくりと頭を下げた。床に額がつくほど深く。
「その通りだ。許しを求める資格は、私にはない」
大阪は数秒間、老人の後頭部を見つめた。
それから、一歩引いた。
「……許すとは言うてへん。でも、息子に会わせるのは──別に、ウチらが止める筋合いでもないわ」
莉奈は大阪の横顔を見た。大阪の目が赤い。
怒りと──悔しさ。金子が痣だらけになったのを、ずっと隣で見てきた人間の怒り。
「息子は──イカロスは、無事か」
莉奈は横に退き、背後に立っていたイカロスの肩をポンと叩いた。
「本人に聞きな」
イカロスが一歩前に出た。
父と子が、向かい合った。
ダイダロスは──崩れ落ちた。
膝から力が抜け、石造りの床に両手をついた。白髪が乱れて顔を覆う。肩が震えている。
「イカロス──イカロス──」
名前だけを、繰り返した。翻訳する必要のない、ただの名前。どの言語でも同じ響き。父が子を呼ぶ声。
イカロスは父の前に立ち、見下ろしていた。
別れた時は壮年だった男が、白髪の老人になっている。彼にとっては「さっき別れたばかり」の父なのに。
「父さん──何があったんだ。なぜ、こんなに」
「お前を探していた」
ダイダロスが顔を上げた。涙が、深い皺を伝って顎から落ちた。
「お前が落ちた時、迷宮の力で受け止めようとした。だが失敗した。お前は遠い未来へ飛ばされ、私も──追放された。ここへ」
「どれくらいの時間が」
「分からない。この窓の外の景色が変わっていくのを、ずっと見ていた。太陽が何千回昇って沈んだか、数えるのをやめた」
数千年。
この展望室から、知らない街の灯りが増えていくのを、一人で見つめ続けた。息子の名前を呼びながら。
イカロスが膝をつき、父親を抱きしめた。
ダイダロスの身体が強張った。
何千年ぶりの、人間の体温。それから、老人の腕がゆっくりとイカロスの背中に回った。小さな背中。落ちていく息子を掴めなかった腕が、今、息子の身体を掴んでいる。
「父さん。俺は大丈夫だ。落ちたけど──助けてもらった。あの人たちに」
イカロスが振り返り、莉奈たちを指した。
ダイダロスの涙で濡れた目が、七人を見た。
莉奈は、その光景を見つめながら、胸の奥が痛くなった。父と子が抱き合っている。当たり前の光景のはずなのに、莉奈にはその「当たり前」がなかった。父親が出ていってから、一度も抱きしめてもらっていない。
(帰りたい)
唐突にそう思った。
渋谷のフラペチーノが甘すぎるだけの、退屈な放課後に。
母親が「晩ごはんいらない」としかメッセージをくれない、あの日常に。
帰りたい。
あの日常が、実はそんなに悪くなかったと、今なら思える。
「ミノタウロスを──倒さなかったのか」
ダイダロスが訊いた。
「倒さなかった。あの子は敵じゃない」
ダイダロスの目から、また涙が溢れた。
「あの子もまた、私の罪だ。ミノス王に命じられて、私が閉じ込めた。加害者は私だ」
老人が壁画の隠された一行を指差した。崩落で見えなかった文字。
「『息子を助けてくれ。二人とも』」
イカロスだけではなかった。ミノタウロスも。ダイダロスが助けたかったのは、二人の「息子」だった。血の繋がった息子と、自分が閉じ込めた王の息子。
健一がダイダロスの前に進み出た。
「ダイダロスさん。コアを破壊せずにダンジョンの接続を切る方法、ありますか」
老人は数秒間、健一を見つめた。
「ある。私が設計した迷宮には、全て解法を仕込んである。だが──全員の力が要る」
健一がもう一つ、訊いた。
「ミノス王は──今、どこにいるんですか」
ダイダロスの表情が一瞬で変わった。
疲労と悔恨の顔に、恐怖が混じった。
「あの男は死なない。都合が悪くなれば、場所も時代も捨てて逃げる。私を追放した後、あの男自身も──どこかへ消えた。この時代に来ているかもしれない」
「じゃあ、ダンジョンの接続を切っても──」
「ミノス王が健在なら、新たな迷宮が生まれる可能性はある。だが、今はまず──目の前の子供たちを救うことだ」
莉奈はポールを握り直した。
ミノス王。
ミノタウロスを閉じ込めさせた張本人。
クソ親父の中のクソ親父。
「そいつの話は後。──まず、やるわよ。全員で」




