第37話 倒すか、救うか
ミノタウロスの鳴き声が止んだ後、七人は広間の隅に集まった。
イカロスはミノタウロスの傍に残っている。
巨大な前腕に背中を預けて座り、何かを話しかけていた。
古代ギリシャ語の囁き。翻訳は届かないが、穏やかな声のトーンだけが聞こえる。
「整理しよう」
健一が口を開いた。声がまだ少し鼻声だった。
「このダンジョンを消すには、コアを破壊するしかない。コアはミノタウロス本体。つまり──こいつを倒せば、僕たちは全員帰れる。倒さなければ、ダンジョンは消えない」
「水も食料もない。時間制限つきや」
大阪が付け加えた。
「倒すにしても」
和田がぼそりと言った。いつもの軽い口調ではなかった。
「鎖ついたまま倒すのは──処刑やで。戦いですらない」
その一言が、空気を変えた。
「あの子、お父さんに会いたいんやんな」
金子が赤い目のまま言った。イカロスを見つめている。
「会わせてあげたいな、うちは」
「感情で動くなとは言わんけど。帰れなかったら全員死ぬで」
大阪が現実を突きつけた。だが、その声にはいつもの鋭さがなかった。さっき自分も泣いていたことを、全員が知っている。
健一がここで、全員に告げた。EPの真実を。
「莉奈の雷の燃料は──莉奈自身の感情だ」
六人の視線が健一に集まった。
「Ether Pointじゃなくて、Emotion Point。感情の総量。怒り、悲しみ、孤独、信頼。全部が雷の燃料。覚醒【迅雷紫電】はそれを一気に燃やす。使えば使うほど、莉奈の心が削れていくんだと思う」
「削れるって──」
「最悪の場合、感情そのものを失う。怒れなくなる。泣けなくなる。笑えなくなるんじゃないかな」
沈黙。
「渋谷のボス戦の後、莉奈が数日間ぼんやりしてたのは、感情が焼け落ちた後の空虚だった。覚醒を使わなければ、あのリスクはない。だから──別の方法を探す必要がある」
大阪が健一を見た。
「それ、さっき隠してたやつか」
「はい。すみません」
「謝んな。言うべき時に言うた。それでええ」
莉奈は壁に背中を預けて、天井を見上げていた。石造りの天井に、松明の影が揺れている。
「うん。知ってた」
全員が莉奈を見た。
「渋谷の後、なんとなく気づいてた。覚醒使った後、世界の色がちょっとだけ薄くなった感じがした。フラペチーノの味も、健一の声も、なんか一枚ガラス越しみたいになった。数日で戻ったけど……」
健一の顔が青ざめた。気づいていた。気づいた上で、黙っていた。
「ちょっと顔! 言ってどうすんの。健一が心配するだけっしょ」
莉奈が立ち上がった。
「アタシは、あいつを倒さない」
正面から宣言した。議論ではなく、決定として。
「倒して帰る道もある。それが一番確実なのは分かってる。でも、あいつは敵じゃない。鎖に繋がれて、怯えて、泣いてた。あれを倒して『あー帰れた』ってヘラヘラ笑うような──そんな薄情な人間に、アタシはなりたくない」
渋谷で健一の胸ぐらを掴んで叫んだ言葉が、静かに、でも確実に、形を変えて戻ってきた。
大阪が立ち上がった。
「莉奈ちゃん。ウチは反対や」
空気が凍った。
金子が「大阪ちゃん」と小さく呟いた。
「あの子が可哀想なのは分かる。鎖に繋がれて、泣いてた。見てたら助けたくなる。でもな──」
大阪は金子の右肩を指差した。腫れ上がった右肩。梅田から新宿まで、ずっと殴られ続けてきた肩。
「金子の肩、もう限界や。あと何時間かこの迷宮にいたら、動けなくなる。水もない。食料もない。──代案を試す時間がどれだけあるか分からへん状況で、確実に帰れる方法を捨てるのは、ウチにはできん」
大阪の声は冷たくなかった。怒りでもなかった。ただ、必死だった。守りたい人間がいるから、反対している。
金子が口を開きかけた。
「うちは大丈夫……」
「大丈夫ちゃう」
大阪が遮った。
「アンタはいつもそう言って、限界まで笑って、倒れてから泣く。梅田でもそうやった。もう見たくないんよ、ウチは」
金子の目が潤んだ。
大阪の声も、わずかに震えていた。
山岸が壁に背中を預けたまま、口を開いた。
「俺からも一つ、正直に言わせてくれ」
全員が山岸を見た。
「莉奈ちゃん。アンタとイカロスがあのデカブツに共感できる気持ちは──正直、俺には分からない」
莉奈が目を見開いた。
「アンタは父親に捨てられた。イカロスも。あのデカブツも。だから三人は通じ合えた。でも、俺にはその傷がない。俺の傷は別のところにある。渋谷で、転んだ同僚に手を伸ばせなかった。あの時の後悔だ」
山岸はバットの柄を握りしめた。
「あのデカブツを助けるべきかどうか、俺にはまだ分からない。でも──」
山岸が莉奈を見た。
「アンタの判断を信じるかどうか、俺の中にはある。渋谷で一緒に戦った。アンタは嘘をつかない。突っ込みすぎるし、意地っ張りだし、認めるのに時間がかかる。でも、最後には正しい方を選ぶ。──だから、俺はアンタについていく。理由は分からなくても」
莉奈は二人を見つめた。
大阪の「反対」は正しい。
金子を守りたい。当たり前だ。
山岸の「分からない」も正直だ。共感できない相手を無理に理解したフリをしない。
「大阪」
莉奈は大阪の目を真っ直ぐに見た。
「金子を守りたい気持ちは、アタシも同じ。だから──もし代案がダメだったら、アタシが最初にコアを砕く。金子が倒れる前に、アタシが決断する。それでいい?」
大阪は数秒間、莉奈の目を見つめた。嘘がないか。【看破】で読んでいる。
「……嘘は、ないな」
「当たり前っしょ」
「期限は。どこまで試して、ダメなら戻るん」
「ダイダロスを探して、会う。方法がなかったら──ここに戻って、砕く」
大阪は数秒間、天井を見上げた。それから、座り直した。
「分かった。期限つきなら乗る。──でも、金子が倒れたらその瞬間に撤退や。それは譲らへん」
「約束する」
金子が泣きそうな顔で大阪を見ていた。
「大阪ちゃん」
「泣くな。お前のために言うてんねん」
「分かってるから泣いてるんやんか」
「代案はある」
健一が前に出た。
「壁画に書いてあった。『全ての理不尽には解法を仕込んだ』。ダイダロスなら、コアを破壊せずにダンジョンの接続を切る方法を知ってるかもしれない」
「でも、ダイダロスはどこにいるの」
「まだ分からない。でも、イカロスは『迷宮の上の方に気配がする』って言ってた。山岸さんの【探知】なら追えるかもしれない」
和田が天井を見上げた。
「つまり、まずあの爺さんの居場所を探して、会う。迷宮の設計を書き換えさせる。──見つからへんかったら?」
「期限までに見つからなければ、ここに戻る。その時は、もう一度決めよう」
健一の声は逃げていなかった。
渋谷では莉奈が突っ込み、健一がブレーキを踏む役割だった。
今は、莉奈が決断し、健一が道を示す。
前衛と後衛。
変わっていないようで、二人は確実に一段上にいた。
「じゃあ、まず鎖を外す」
莉奈がポールを拾い上げた。




