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第36話 三人の子供

 イカロスは、静かに語った。


 迷宮の自動翻訳が古代ギリシャ語を日本語に変換し、七人の脳に直接届ける。唇の動きと聞こえる言葉がずれている。だが、声の震えだけは翻訳を介さず伝わってきた。


 不安と、微かな希望。


「父が翼を作ってくれた。蝋(ろう)と羽根の翼。二人で空を飛んで、この島から逃げるはずだった」


 イカロスの目が、遠くを見た。


 見えない空を。


 石造りの天井しかない暗い広間で、少年はまだ空を探していた。


「飛んだ。高く飛びすぎた。翼が溶けて──落ちた」


 金子が小さく息を呑んだ。


「落ちていく途中で、何かに掴まれた気がした。気がついたら、ここにいた」


「ここに──ひとりで?」


 莉奈が訊(き)いた。


「最初は一人だった。暗くて、怖くて。そしたら──こいつがいた」


 イカロスがミノタウロスの前脚を撫でた。巨大な脚が、微かに震えた。


「最初は暴れた。鎖を引きちぎろうとして、叫んで、暴れて。俺は隅に逃げて、何日も震えてた。でも──暴れ疲れて、こいつが静かになった時、気づいたんだ」


 イカロスは、ミノタウロスの赤い目を見上げた。


「こいつも、怖かったんだ。俺と同じだった。暗い場所に、一人で。誰も来ない。来ても、倒しに来る人間だけ。──だから俺、逃げるのやめた。こいつの隣に座った。そしたら、静かになった」


 金子の目から涙がこぼれた。


 大阪が金子の肩をそっと掴んだ。


「父は──どこかにいるはずだ。迷宮の上の方に、気配がする。でも、俺はここから出られない。こいつを一人にはできないから」


 イカロスの声は、淡々としていた。


 泣いていなかった。泣き尽くしたのだろう。何日も──いや、彼の体感では何日だが、実際には──


「イカロスくん」


 健一が、穏やかに、しかし確実な声で言った。


「一つ、伝えなきゃいけないことがある。あなたが落ちてから──数千年、経ってる」


 少年の顔から、表情が消えた。


「……何を言ってる」


「あなたの名前は、この世界では神話として知られてる。蝋の翼で太陽に近づきすぎた少年の話。数千年前の物語として」


 イカロスは一歩後ずさった。


 壁画の文字列。

 天井の見たことのない松明。

 七人の見たことのない服装。

 全てが、自分の知る世界と違うことに、気づいていた。


 気づかないふりをしていただけだ。


「父は──父も、数千年前の人間なのか。もう死んでいるのか」


「いや。お父さんは、多分まだ生きてる」


 健一がメガネを押し上げた。


「壁画を描いた人間がいる。あの壁画は数日前に描かれたもの。ということは、お父さんは今この時代のどこかにいて、あなたを探してる。たった数日前まで、壁に『息子を助けてくれ』って書いてた」


 イカロスの目が揺れた。


 希望と、信じることへの恐怖。


 莉奈はイカロスを見ていた。


 そしてミノタウロスを見た。


「ねえ。こいつは、アンタの敵じゃないの。神話だと、ミノタウロスは人間を食う怪物ってことになってるけど」


 イカロスは首を振った。


「こいつは──怖がってるだけだ。鎖で繋がれて、暗い場所に閉じ込められて、ずっと一人で」


 イカロスがミノタウロスの脚を撫でた。巨体がわずかに揺れた。十メートルの怪物が、少年の手に身を寄せるように。


「こいつはミノス王の息子だ。俺にとっても──兄弟みたいなものだ。父が、こいつを閉じ込めるための迷宮を作った。俺の父が」


 莉奈は、ゆっくりとポールを拾い上げ、それから、もう一度、地面に置いた。今度は壁に寄せて。手の届かない場所に。


 七人の視線が莉奈に集まった。


 莉奈は両手を広げて、ミノタウロスの前に歩き出した。武器を持っていない。雷も纏っていない。ただの、制服姿の金髪の女子高生。


「莉奈、危ない──」


 健一が手を伸ばしかけたが、山岸がその腕をそっと押さえた。


「今は行かせてやれ」。


 十メートルの巨体の前に立った。


 見上げた。首が痛くなるほど、見上げた。


 赤い目が、莉奈を見下ろしている。怯えた目。自分を倒しに来た人間を、何千年?も見てきた目。


 莉奈は、あの目を見て──笑った。苦笑ではなく、嘲笑でもなく、ただ静かに。


「アンタさ。ずっと一人だったんでしょ」


 ミノタウロスの赤い目が、微かに揺れた。


「アタシもそうだった。一人が楽だって思ってた。怖いから。誰かに近づいて、また捨てられるのが怖いから。だから壁を作って、金髪にして、ネイル塗って、誰も入ってこないように」


 莉奈の声は震えていなかった。


 淡々と、ただ事実を述べるように。渋谷のダンジョンに入る前の自分を語っている。あの「完全武装」の少女を。


「でも、一人は寂しかった。ずっと分かってたのに、認めたくなかった。認めたら負けだと思ってた。──アンタも、そうでしょ」


 ミノタウロスの鎖がじゃらりと鳴った。巨体が微かに前傾した。逃げたのではない。近づいた。莉奈に。


「アンタの親父は、アンタをここに閉じ込めた。アタシの親父は、アタシを置いて出ていった。イカロスの親父は、イカロスを助けられなかった」


 莉奈は右手を伸ばした。


 ミノタウロスの額に向かって。巨大な牛の顔が、莉奈のすぐ目の前まで降りてきていた。荒い鼻息が金髪を揺らした。血と獣の匂い。


「──全員、クソ親父だよね」


 莉奈の手が、ミノタウロスの額に触れた。


 硬い。冷たい。


 だが──脈打っている。生きている。この十メートルの怪物は、生きている。鎖に繋がれたまま、怯えたまま、何千年も、一人で。


「大丈夫。アンタは一人じゃない。──アタシがいるから」


 ミノタウロスの赤い目から、何かが溢れた。


 涙──ではない。


 光の粒子。体内に蓄積された魔力が、感情の波に反応して微かに漏れ出したもの。


 だが莉奈にはそれが涙に見えた。涙でなくても構わない。


 この怪物が、何かを感じている。それだけで十分だった。


 ミノタウロスが声を出した。


 吠えるのではなく。咆哮でもなく。


 低く、小さく、震えるような鳴き声。十メートルの身体全体が振動するほどの、でも音量としては囁きのような。猫が喉を鳴らすのに似た、穏やかな音。


 泣いていた。十メートルの怪物が、金髪の少女の手の下で、泣いていた。


 莉奈はミノタウロスの額に手を当てたまま、目を閉じた。


 父の背中が見えた。玄関で振り返った夜の背中。あの時は「裏切り者の背中」にしか見えなかった。ただの卑怯者だと思った。


 でも今、同じ背中が、少しだけ違って見える。


 逃げた背中じゃなくて、「助けてくれ」が言えなかった背中。


 ダイダロスと同じだ。


 壁画に「息子を助けてくれ」と書いたくせに、直接言えなかった男と。


 見え方が、変わり始めている。許したわけじゃない。


 でも──ただの裏切りではなかったのかもしれない、と。


 初めて、そう思った。


 莉奈は目を開けた。ミノタウロスの赤い目が、すぐ近くにあった。


 金子がボロ泣きしていた。声を上げて、両手で顔を覆って、しゃがみ込んでいた。


 大阪が「泣くな、もらい泣きする」と言いながら目元を拭っていた。


 和田は壁に背中をつけて、天井を見上げていた。笑っていた。目も笑って、いた。


 山岸はバットを地面に突き立て、両手で柄を握りしめていた。渋谷で転んだ同僚に手を伸ばさなかったことを、思い出していた。


 小保内は山岸の隣で、静かに涙を流していた。


 健一は泣いていた。メガネを外して、袖で目を拭って、また泣いていた。いつもの泣き虫だ。でも今回は、誰も笑わなかった。


 松明の炎が揺れ、鎖の音だけが石造りの広間に反響している。


 七人と一頭と一人の少年。それだけがいる、暗い、深い、迷宮の底。


 イカロスが、莉奈の隣に立った。


「ありがとう」


 その一言には、翻訳のラグがなかった。


 感情が、言語を超えた。


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