第35話 鎖に繋がれた子供
最深部は、別の世界だった。
螺旋階段を下りきった瞬間、空気の質が変わった。
鉄と血と、古い石の匂い。湿度が上がり、莉奈の金髪が首筋に張りついた。天井は五十メートル以上の高さがあり、壁面には無数の松明が揺れていた。炎の影が石造りの壁面で踊っている。
そして、広間の中央で、赤紫色のダンジョンコアが心臓のように脈打っていた。
莉奈は足を止めた。
コアの前に、何かがいる。
最初に見えたのは、影だった。
松明の炎に照らされた影が、壁面の半分を覆い尽くしていた。それが一つの生き物の影だと理解するのに、数秒かかった。
ゆっくりと、視線を上げた。
太い脚。樽のような胴体。人間の十倍はある肩幅。そこから伸びる牛の首、牛の頭。渋谷で戦った劣化コピーの比ではなかった。あれが模型なら、これは実物だ。十メートルを超える巨体が、広間の中央に座り込んでいた。
右手に握られた戦斧が、床に投げ出されている。刃の長さだけで莉奈の身長を超えている。振り下ろされれば、この広間の床ごと叩き割れるだろう。
「嘘やろ……」
和田が、初めて笑っていない声を出した。
「でかすぎるやん……」
金子が、莉奈の袖を掴んでいた。無意識に。莉奈はそれを振り払わなかった。
だが、莉奈の目は巨体の大きさではなく、別のものに吸い寄せられていた。
鎖だ。
五本の太い鎖が、ミノタウロスの身体を繋いでいた。
右腕、左腕、右脚、左脚、そして首。各々の鎖が床面のリングに固定され、巨体を地面に縫いつけている。鎖の重さで上半身が前傾し、頭が垂れ下がっていた。
右手の戦斧だけが、辛うじて鎖の遊びの範囲で動く。
それ以外は、自由にならない。
「繋がれてる」
莉奈が呟いた。声が、思ったより小さかった。
ミノタウロスの頭がゆっくりと上がった。
七人の人間が、自分の領域に入ってきたことに気づいた。赤い目が、松明の炎を反射して光った。
渋谷の劣化コピーの目を、莉奈は覚えている。あの目は、純粋な殺意だった。赤く、熱く、何も考えずにこちらを壊そうとする獣の目。
だが、この目は違った。
赤い。だが、熱くない。
冷たい。いや、冷たいのとも違う。
怯えている。
十メートルの巨体が、莉奈を見下ろしながら、怯えている。身体が微かに震えている。鎖がじゃらりと鳴った。あの音を、何千年も聞いてきたのだろう。人間が来るたびに。鎖の音がして、殴られて、倒されかけて。でも鎖があるから逃げられない。
莉奈の胸の奥が、締めつけられた。
「あれ……敵ちゃうやん」
金子が言った。袖を掴んだ手を離さないまま、小さな声で。天然の彼女は、いつも本質を最初に見抜く。
「金子の言う通りだ。あいつ──俺たちを怖がってる」
山岸が【探知】でミノタウロスの身体をスキャンしていた。
「心拍が上がってる。でも攻撃態勢じゃない。この心拍パターンは──人間が怯えてる時と同じだ」
大阪の【看破】も同じ結論を出していた。
「目の動き。こっちの武器を確認してる。ポールと、バット。それを見てから、視線が鎖に落ちてる。自分が逃げられないことを、確認してるんや」
何千年も繰り返したルーティン。人間が来る。武器を持っている。自分は逃げられない。だから、反射的に戦斧を握る。防衛本能。生き延びるために。
莉奈は、あの赤い目をじっと見つめた。
(この目、知ってる)
中学の時。父親が荷物をまとめて玄関に立った夜。振り返った父の目が、同じだった。怯えていた。自分がやっていることの重さに耐えられなくて、でも止められなくて、怯えた目で娘を見た。
あの時、莉奈は何もできなかった。何も言えなかった。ただ、自分の部屋のドアを閉めた。
「……莉奈ちゃん?」
金子の声が遠い。
莉奈はポールを下ろした。肩に担いでいたステンレスの武器を、ゆっくりと、地面に立てかけた。
その時、莉奈は気づいた。
ミノタウロスの巨体の影に隠れるように、小さな人間が座り込んでいることに。
ボロボロの衣を纏った少年。莉奈と同じくらいの年齢に見える。茶色い巻き毛。日に焼けた肌。古代の衣服。
少年は、片方の手でミノタウロスの鎖を握り、もう片方の手でミノタウロスの前脚に触れていた。怪物の隣に座って、怪物に触れている。怖がっていない。それどころか、ミノタウロスを守るように、人間たちの前に自分の身体を置いている。
少年が顔を上げた。莉奈と目が合った。
古代ギリシャ語が、迷宮の自動翻訳を通じて莉奈の脳に届いた。
「──お前も、父に捨てられたのか」
莉奈の心臓が、一拍だけ止まった。
「……なんで、分かるの」
「目だ。俺と同じ目をしている」




