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第32話 感情の総量と、言えない秘密

 深層に向かう途中、健一は莉奈の隣を歩きながら、自分のステータス画面を凝視していた。


 EPバー。


 渋谷からずっと引っかかっていた隠しパラメータ。場所の感情密度に連動し、莉奈の雷の出力を左右する、と健一は結論づけていた。Ether Point。エーテルの蓄積量。


 だが、新宿に来て矛盾が生じていた。


 新宿駅は一日三百万人が通過する。感情密度は渋谷に匹敵するはずだ。なのに莉奈のEPバーは渋谷の交差点の五分の一。場所だけでは説明がつかない。


 健一はメモ帳を開いた。渋谷で使っていたのと同じ、罫線の潰れた安物。ページの隅に、これまでの観測値を書き並べていく。


 仮説一。EPは場所の人口密度に比例する。

 ──却下。新宿の方が多い。


 仮説二。EPは地上からの深度で決まる。

 ──却下。渋谷の最深部より、新宿の浅い階層の方が低い数値を記録している。


 仮説三。EPはダンジョンの規模に反比例する。

 ──これも合わない。数値の上下が規模とは無関係なタイミングで起きている。


 ペン先が止まった。三つとも、莉奈を「容れ物」として扱う仮説だった。

 場所が決めて、深さが決めて、迷宮が決める。

 莉奈はただそこに立っているだけ。


 だが、もし。


 決めているのが、莉奈自身だとしたら。


 健一はエムプーサ戦の記録を遡った。莉奈が素手で雷を放った瞬間、EPバーが──上がった。


 場所は変わっていない。


 変わったのは、莉奈自身の感情だけだ。戦闘の興奮。金子を守ろうとした怒り。


 記録を三十分単位で並べ直した。

 数値が跳ねた瞬間に、必ず何かが起きている。


 金子の袖をめくって痣を見た時。

 莉奈の右足がエムプーサに呑まれた時。

 「ごめん」と息だけで呟いた時。

 壁画のダイダロスの目を見た時。


 逆に、数値が落ちた瞬間もあった。

 通路を黙々と歩いている時。

 休憩中に誰も喋らない時。


 感情が動いた時に、上がる。

 感情が凪いだ時に、下がる。


 そして渋谷のデータ。

 交差点でEPが最大だった時、莉奈は健一の囮案に激怒していた。

 最深部でEPが枯渇した時、莉奈は絶望し、心が折れかけていた。


 覚醒。【迅雷(じんらい)紫電《しでん》】。

 MPが枯渇した後、莉奈のHPが削れた。

 生命力を燃料にした、と解釈していた。

 だが、もし削れていたのがHPではなく──


 健一はペンを置いた。


 Eの文字を、メモ帳の余白に書いた。Ether(エーテル)。エーテル。ゲームでよく使われる、便利で無責任な言葉。


 意味を考えずに使っていた。

 設定を読み飛ばして先に進むプレイヤーと同じように。


 その横に、もう一つの単語を書いた。


 Emotion(エモーション)。


 書いた瞬間、指先が冷たくなった。血が引いていく感覚が、手首から肘へ這い上がってくる。メモ帳の罫線が滲んで見えた。


 健一の手が震え始めた。


「EP」は「Ether Point」ではなかった。


「Emotion Point」。


 莉奈自身の感情の総量。

 怒り、悲しみ、孤独、信頼。

 全てが雷の燃料だった。

 覚醒は、莉奈の感情を一気に燃やして力に変えていた。


 渋谷のボス戦で莉奈が使い果たしたのは、自分の心だった。


 もし、もう一度覚醒を使って、感情の総量がゼロになったら。


 莉奈は怒ることも、泣くことも、笑うことも、できなくなる。


 健一は想像しようとして、失敗した。想像できたのは、その手前までだった。


 フラペチーノを一口飲んで、何も言わない莉奈。「甘い」とも「不味い」とも言わず、ただ液体を嚥下する莉奈。金子が痣だらけの腕を見せても、表情の動かない莉奈。健一が転んでも、鼻で笑わない莉奈。


 生きている。息もしている。歩ける。喋れる。ただ、何も感じない。


 それは、莉奈が一番恐れていた「壁」の完成形だった。誰も入れないように金髪にして、ネイルを塗って、不機嫌な顔をして。あの壁の内側にすら、もう誰もいなくなる。


 渋谷のボス戦で、莉奈は健一を守るために覚醒を使った。

 あの時の代償を、莉奈は知らない。健一だけが知っている。


 言うべきだ、と思った。


 莉奈には知る権利がある。


 自分の身体のことだ。次に覚醒を使うかどうかは、莉奈が決めるべきことで、健一が決めることじゃない。


 だが、口を開こうとして、止まった。


 莉奈は知ったらどうするか。健一には分かる。「じゃあ使わない」とは言わない。「使う場面を選ぶ」と言う。そして、健一が死にかけたら迷わず使う。


 渋谷で実際にそうした。


 知らせることは、莉奈に「感情を数えながら戦え」と言うことだ。あと何回怒れるか、あと何回泣けるか、逆算しながら前に出ろと言うことだ。


 それはできない。


 ──だから、黙る。


 そう決めた瞬間、健一の脳裏に父の姿が浮かんだ。


 食卓で、テレビの音だけが流れている。父は何も言わない。健一の成績にも、進路にも、何も。心配していないのではない。たぶん、言葉が見つからないのだ。言えば何かが壊れる気がして、だから黙る。黙っているうちに、言うべきことが積み上がって、もっと言えなくなる。


 同じだ、と思った。


 僕が今やっていることは、あの食卓と同じ形をしている。

 相手のためだと言い聞かせて、黙る。


 健一はメモ帳を閉じた。


 輪郭の違いは、たった一つしかない。

 父は永久に黙り続けた。

 僕は──期限を切る。


 莉奈が覚醒を使わずに済む方法を見つけるまで。見つからなければ、その時は言う。


 それは言い訳かもしれない。でも、今の健一に選べる中では、一番マシな言い訳だった。


「莉奈」


「何よ、急に」


「頼むから、覚醒は──【迅雷紫電】は、もう使わないでくれ」


 莉奈の目が見開かれた。健一の声が、渋谷のどの場面よりも切迫していた。


「理由は、まだ言えない。でも、信じてくれ」


 莉奈は健一の顔をじっと見つめた。


 数秒間。


 それから、鼻で笑った。


「アンタがそこまで言うなら、よっぽどなんでしょ。分かった。使わない──使わなくても勝てるって証明してやるわよ」


 その夜、休憩中に大阪が健一に近づいた。


「健一くん。何か隠してるやろ。莉奈ちゃんに言えへんこと」


 大阪の【看破】は、人間の嘘も見抜く。


 健一は観念した。


「……お願いです。もう少しだけ、黙っていさせてください」


 大阪は数秒間、健一の目を見た。


 嘘ではない。隠しているが、莉奈を守るためだ。それくらいは読める。


「分かった。でも、タイミングを間違えたら、ウチが代わりに言うで」


 健一は頷いた。


 大阪が去った後、健一はしばらく動けなかった。「タイミングを間違えたら」と大阪は言った。間違えたかどうかは、間違えた後にしか分からない。


 父もそうだったのかもしれない。

 何度も、間違えた後で気づいたのかもしれない。


 それでも、あの人は一度も言わなかった。


 僕は言う。期限を切ったのだから。


 健一は自分のステータス画面を見つめた。


 莉奈のEPバーが、さっきの会話の中で、ほんの少しだけ上がっていた。


 信頼。


 それも、感情だ。


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