第26話 処理落ちするマップと、擬態する敵
新宿駅の地下は、渋谷とは別の生き物だった。
莉奈と健一が足を踏み入れた通路は、渋谷のような狭い改札通路ではなく、天井の高い広大なコンコースだった。幅二十メートルはある通路が左右に枝分かれし、さらにその先で上下に分岐している。エスカレーターが上に向かうもの、下に向かうもの、それぞれ三本ずつ。壁面には半壊した案内板がいくつも並び、『JR東口』『京王線』『小田急線』『丸ノ内線』『都営新宿線』『都営大江戸線』など、十一、十二路線
「渋谷って、そんなになかったよね」
健一が青ざめた顔で呟いた。彼の視界には【解析】のマップが展開されているはずだが、その表情は明らかに「見えすぎて困っている」顔だった。
「マップ、どうなってんの」
「正直に言うと……最悪だ」
健一はメガネを押し上げ、宙に浮かぶ自分にしか見えないウィンドウを睨みつけた。
「渋谷は平面的だった。地上→地下→最下層、基本は縦一方向。でも新宿は三次元だ。路線が立体交差してて、同じ場所の真上と真下に別の通路がある。しかも、ダンジョン化の影響で空間が歪んでるから、本来繋がってない通路同士が接続されてたり、逆に繋がってるはずの場所が壁で塞がれてたりする」
「長い。要するに?」
「僕の【解析】が処理落ちしてる。情報量が多すぎて、マップの描画が追いつかない。渋谷では半径五十メートルまで正確に表示できたのに、ここだと二十メートルがやっとだ」
莉奈は舌打ちをした。健一のナビは渋谷で命を何度も救ってくれた。それが性能半減では、先が思いやられる。
「モンスターの反応は?」
「それも厄介で……」
健一の声が、急に低くなった。
「反応が、おかしい。モンスターとして表示されるものと、されないものがある。マップ上は何もないのに、目の前にいる、みたいなことが起きるかもしれない」
「はぁ? なにそれ。ステルス?」
「分からない。でも、気をつけて。渋谷のパイアみたいに正面から突っ込んでくるタイプじゃない可能性がある」
二人は壁際に沿って慎重に進んだ。
莉奈が前、健一が半歩後ろ。武器がない今、莉奈の武器は雷を纏った素手だけだ。渋谷では鉄パイプを使っていたが、ここにはそんな都合のいい粗大ゴミは落ちていない。
通路の途中に、倒れた自動販売機があった。衝撃で前面のパネルが割れ、中のペットボトルが散乱している。莉奈は足を止め、自販機の影を覗き込んだ。
「水、回収しとく?」
「待って。あの自販機、マップ上に表示されてない」
「は? 自販機がマップに映らないってどういうこと」
「自販機は無機物だから、映らなくて当然なんだけど……」
健一の声が、さらに小さくなった。
「あの自販機の横にある壁の染み。あれだけ、マップ上で微かに──脈打ってる」
莉奈の視線が、自販機の右側の壁に移った。
薄暗い通路の壁面に、タイルの目地に沿って広がる黒っぽい染み。水漏れの痕だろうと思っていた。よく見ると、染みの色が妙に濃い。そして、ほんの微かに、呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。
染みが、こちらを見ていた。
「──下がって!」
莉奈が健一の胸を掌で突き飛ばした刹那、壁の染みが弾けた。
黒い液体のような物質が壁面から飛び出し、人間の腕ほどの太さの触手を形成して、莉奈がいた場所を薙ぎ払う。風圧だけで莉奈の金髪が乱れた。
「何コレ──!」
壁面から剥がれるようにして姿を現した「それ」は、決まった形を持っていなかった。黒い粘液のような身体が、壁のタイルの模様を表面にコピーしながら蠢いている。環境に擬態する捕食者。新宿の通路そのものに溶け込んで、獲物が近づくのを待っていた。
「エムプーサだ! ギリシャ神話の変身する怪物──!」
健一がステータス画面を睨みつけた。
「レベルは……読めない。でも渋谷のパイアより動きが速い。それに、擬態してる間はマップに映らない!」
つまり、健一のナビが効かない相手。壁に溶けている間は【解析】が「壁」として認識してしまう。実体化して初めて敵として検知される。そしてその頃には、もう攻撃範囲の内側にいる。
「最っ悪」
莉奈はシンプルなピンクのネイルの指先に意識を集中した。爪の下から、蟻が這い上がるような痺れ。掌を焦がすように広がる熱。金色の火花が指先から散り始める。
「渋谷と同じだと思ってんじゃないわよ──」
莉奈は右拳を握り、雷を纏った素手でエムプーサの触手に向かって踏み込んだ。拳が触手に触れた瞬間、黒い粘液が弾け飛び、金色の閃光が薄暗い通路を照らし出す。
だが、感触が違った。殴った部分は弾けたのに、本体は壁面に逃げるように広がり、またタイルの模様に溶け込んでいく。
「散った! 壁に戻ってる!」
「だから言っただろ、変身する怪物だって──! 倒すには、全身を同時に剥がさないと!」
「同時にって、どうやんのよ! 壁ごと殴れっての!?」
莉奈が叫んだ瞬間、通路の反対側の壁でも黒い染みが蠢き始めた。二体目。いや、よく見れば天井にも。三体目。
この通路そのものが、モンスターの巣だった。
「健一、マップ上に安全な場所は!?」
「二十メートル先の分岐を左! そこは壁面がガラス張りで、擬態できない──多分!」
「『多分』で走れっての!?」
文句を言いながらも、莉奈は健一の腕を掴んで走り出した。背後で、三体のエムプーサが壁から剥がれ、黒い波のように通路を追いかけてくる。
分岐を左に曲がると、健一の言う通りガラス張りの通路に出た。元はショーウィンドウだったらしい壁面が、透明なガラスのまま残っている。エムプーサの黒い身体は、ガラスには擬態できないのか、通路の入り口で蠢いたまま踏み込んでこなかった。
「はぁ……はぁっ……」
莉奈は膝に手をついて息を整えた。たった一回殴っただけで、右拳がジンジンと痛む。素手の戦闘は鉄パイプの比じゃない。
「渋谷とは違う」
健一が、震える声で言った。
「渋谷のモンスターは正面から来た。強かったけど、分かりやすかった。でもここのモンスターは、壁に溶ける。マップに映らない。健一のナビで避けられない。新宿の迷宮は──構造そのものが敵だ」
莉奈はガラス張りの通路の奥を睨んだ。透明な壁の向こう側に、暗い通路がどこまでも続いている。
「武器がいる」
莉奈が呟いた。素手じゃ、あの擬態するやつの全身を同時に剥がすなんて無理だ。広い範囲を一撃で焼き払える武器か、それとも──
「莉奈、あそこ」
健一が指差した先に、ガラス張りの通路の壁に立てかけられたものが見えた。元は駅構内の案内用スタンド看板だったらしい、ステンレス製のポール。長さは莉奈の身長ほど。先端が少し曲がっているが、握りやすい太さだ。
莉奈はそれを引き抜き、片手で軽く振ってみた。鉄パイプよりも軽く、リーチが長い。
「……まあ、ないよりマシ」
ステンレスポールを肩に担ぎ、莉奈は通路の奥へと視線を向けた。ガラス張りの安全地帯は、ここだけだ。この先に踏み出せば、また壁そのものがモンスターの領域になる。
「健一、ナビの精度が落ちてるのは分かった。でも、マップの情報量が多すぎて処理落ちしてるってことは、情報自体はあるんでしょ」
「……うん。表示しきれてないだけで、データは取れてる」
「じゃあ、全部表示しようとしないで。アタシの周囲五メートルだけに絞って。それで足りる」
健一はハッとした。
渋谷では広域マップを使って迂回ルートを探していた。でも新宿では、それが仇になっている。広すぎるから処理落ちする。なら、範囲を絞ればいい。
「……莉奈、頭いいな」
「バカにしてんの?」
健一は【解析】の設定を弄り、マップの表示範囲を半径五メートルに圧縮した。途端に、ノイズだらけだった表示が鮮明になった。目の前の通路の壁面に潜むエムプーサの位置が、赤い点として明確に浮かび上がる。
「見えた。三メートル先の右壁、天井寄りに一体。五メートル先の左壁、床際に一体」
「よし。行くわよ」
莉奈はステンレスポールを構え、ガラス張りの通路から一歩踏み出した。
新宿の迷宮が、牙を剥いて二人を待っている。




