第25話 カラオケの帰り道と、二度目の世界の終わり
採点機能が『92点』と表示した瞬間、莉奈は小さくガッツポーズをした。
「よっしゃ。自己ベスト更新」
防音の箱の中に、誰にも聞かせるつもりのない歓声が響く。ヒトカラは莉奈の数少ない趣味だったが、今日は「ヒト」カラではなかった。向かいのソファで、健一がカルピスのグラスを両手で包みながら、少しだけ笑っている。
「莉奈、マジで上手いよね。なんでアイドルとか目指さなかったの」
「アホなの? 群れるのが嫌いな人間がアイドルになれるわけないっしょ」
莉奈はマイクをテーブルに置き、ストローでメロンソーダを吸った。渋谷の地下迷宮から生還して十日。あの数時間が嘘のように、日常は元に戻っていた。ステータス画面は消え、金色の雷も出なくなり、武器にしていた鉄パイプはとっくにゴミ捨て場に返した。
変わったのは、二つだけ。
爪の色が、スカル柄のギラギラから、シンプルなピンクの単色になったこと。そして、カラオケに行く時に、隣に座っている人間がいること。
「次、何歌う?」
「もういいわ。喉枯れたし。そろそろ出る」
莉奈が精算ボタンを押すと、健一も慌ててカルピスを飲み干した。五杯目だ。こいつ、歌わないくせにドリンクだけは元を取ろうとしている。
カラオケ店を出ると、新宿東口の雑踏が二人を飲み込んだ。
夕方五時の新宿は渋谷とは質が違う。
渋谷が「遊びに来た若者」の街なら、新宿は「あらゆる用事の人間」が混在する街だ。スーツ姿のサラリーマン、制服の高校生、キャリーケースを引く外国人、カフェの看板の前で立ち止まるカップル。人間の密度が、渋谷よりさらに濃い。
「次、どうする? ご飯でも食べてく?」
健一が訊くと、莉奈は少し考えてから首を振った。
「今日はいい。母さんが珍しく晩ごはん作るって言ってたから」
「え、マジで?」
健一が驚いた顔をしたのには理由がある。
莉奈の母親は、あの事件以来、少しだけ変わった。たまに夕食を用意するようになり、メッセージアプリの返信も一日以内に来るようになった。テレビで「渋谷ダンジョン化現象」の報道を見て、娘が巻き込まれていたかもしれないと思ったのかもしれない。
真相を話す気はないが、あの事件が家庭にほんの少しだけ温度を戻したのは皮肉だった。
「じゃあ、駅まで送──」
健一が言いかけた、その時。
莉奈の右手の甲が、チリッと痺れた。
「──っ」
足が止まった。
指先に走った感覚には、覚えがあった。あの地下で、雷を纏った時の、血管を電流が駆け抜けるような感覚。消えたはずの、あの力の残滓。
「莉奈? どうし──」
健一も同時に足を止めていた。彼の右手も、微かに光っている。消えたはずのステータス画面が、手の甲の上で淡く明滅し始めていた。
「嘘でしょ」
莉奈が呟いた時には、もう遅かった。
足元に、禍々しい赤い魔法陣が展開されていた。
渋谷のあの転移トラップと同じ光。だが規模が違う。莉奈と健一だけではなく、新宿東口の広場全体を覆い尽くすような、巨大な光の渦。
周囲の通行人たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。だが、魔法陣の内側にいた人間は逃げられない。足が、地面に縫い付けられたかのように動けなかった。
「健一──っ!」
莉奈は咄嗟に健一の腕を掴んだ。
渋谷で、転移トラップに飲まれる瞬間に健一の手を「避けた」ことへの後悔が、反射的に身体を動かしていた。
今度は離さない。
「莉奈、掴まってて──!」
健一も莉奈の手を強く握り返した。
視界が白い光に染まっていく。
最後に見えたのは、新宿の夕焼け空だった。
あの渋谷の時と違って、今日の空はまだ紫色に染まっていない。
ただの、綺麗な、オレンジ色の──
意識が、途切れた。
* * *
冷たいコンクリートの床の感触で、莉奈は目を覚ました。
「っ……」
背中が痛い。頭がぼんやりする。不快な浮遊感が全身に残っている。
ゆっくりと目を開けると、薄暗い地下空間が広がっていた。
天井は高く、壁面にはステンレスのパネルが整然と並んでいる。非常灯の緑色の光が、等間隔で通路を照らしている。どこかの駅の地下コンコースだ。
だが、渋谷ではない。空気の匂いが違う。渋谷駅の地下はカビ臭かったが、ここはもっと乾いていて、埃と鉄と、微かに駅弁の匂いがする。
「莉奈っ! 莉奈、起きて──!」
すぐ隣で、健一の声がした。
莉奈が首を回すと、二メートルほど離れた場所で、健一が壁に背中を預けて座り込んでいた。眼鏡は無事だが、顔は青ざめている。
「……生きてる?」
「なんとか。莉奈こそ──」
「平気よ。二回目だし」
強がりを口にしながら、莉奈は上半身を起こした。右手を見る。消えていたはずのステータス画面が、再び半透明のウィンドウとして視界の端に浮かんでいた。
『神崎莉奈』
『クラス:魔闘家(Lv.3)』
『HP:140/140 MP:35/35 EP:12/??』
レベルもHPもMPも、渋谷を出た時のまま引き継がれている。そしてEPバー、あの意味不明なゲージも復活していた。数値は低い。渋谷のスクランブル交差点にいた時の、五分の一にも満たない。
「ここ、どこよ」
莉奈が立ち上がり、周囲を見回した。通路の壁に、案内板が残っていた。
『←西口 東口→ ↓丸ノ内線 ↓都営新宿線』
莉奈の背筋を、冷たいものが走った。
「新宿駅……」
日本で最も複雑な地下構造を持つ、巨大ターミナル。一日の利用者数三百万人。JR、私鉄、地下鉄が複雑に絡み合う、生きた迷宮。
健一が震える手でメガネを押し上げ、【解析】を起動した。
空中にマップが展開される。だが──
「嘘だろ……」
健一の顔から、さらに血の気が引いた。
マップが、処理落ちしている。情報量が多すぎて、渋谷で使っていた時のような鮮明な表示ができない。路線が重なり、通路が交差し、階層が折り重なって、蜘蛛の巣を丸めて握り潰したような、意味不明な立体構造が浮かび上がっていた。
「渋谷の……十倍以上ある」
莉奈は武器を探すように手を動かしたが、もちろん鉄パイプはない。シンプルなピンクのネイルに包まれた素手だけが、そこにあった。
その時、脳内に声が響いた。
渋谷で聞いた、あの駅の案内放送に似た合成音声。だが、トーンが違う。渋谷では丁寧な敬語だった。ここでは──
『──選別試験突破者、確認。神崎莉奈、高橋健一。本迷宮への入場を許可する』
敬語が消えていた。「ご利用いただき」も「お客様」もない。事務的で、冷たく、命令的な声。
『注意事項を告げる。本迷宮は試験ではない。本番である。──生存を、祈る』
祈る、と言った。
渋谷では「お使いください」だった声が、「生存を祈る」と言った。
莉奈は、薄暗い新宿駅の地下で、健一と顔を見合わせた。二人の表情は同じだった。あの渋谷の地獄が、まだ「試験」だったという事実への、純粋な恐怖。
「……山岸と小保内は」
健一がパーティーメンバーの欄を確認する。山岸と小保内のアイコンは表示されているが、灰色だ。『通信圏外』の文字が点滅している。
「生きてる。でも、遠い。多分、この駅のどこかにはいるんだろうけど──」
「別の場所に飛ばされた、ってことね」
莉奈は、案内板の矢印を睨みつけた。西口、東口、丸ノ内線、都営新宿線。あの渋谷の何倍もの選択肢が、暗い通路の奥で枝分かれしている。
シンプルなピンクのネイルに包まれた指先に、微かな痺れが走った。雷の予感。力は、戻っている。
「行くわよ、健一。まずは山岸たちと合流する」
「了解。でも莉奈、一つだけいい?」
「何よ」
「今回は、僕のナビを信じてくれる? 最短ルートに突っ込むのは、なしで」
莉奈は一瞬だけ唇を尖らせ、それから小さく鼻で笑った。
「分かってるわよ。二度同じミスするほど、バカじゃないっつーの」
渋谷での失敗を、莉奈の身体は覚えている。最短ルートに三歩踏み込んで、金髪の毛先を切り落とされた、あの鉄格子の音。
二人は並んで歩き出した。莉奈が前、健一が半歩後ろ。
渋谷では二歩だった距離が、半歩に縮まっている。
日本一複雑な地下迷宮で、二度目の放課後が始まった。




