第24話 甘すぎるフラペチーノと、隣を歩くダチ
渋谷ダンジョン化現象。
後にニュースでそう名付けられた未曾有の災害から、一週間が経過していた。
渋谷の中心部は自衛隊によって封鎖され、復旧作業が続いている。だがステータス画面もモンスターも、莉奈の右手に宿った青白い雷光も、コアの破壊と共に跡形もなく消えた。
不思議なのは、莉奈がそれを寂しいと感じたことだった。HPやMPの数字よりも、『パーティーメンバー:高橋健一』と書かれた一行が消えたことのほうが、ほんの少しだけ胸に響いた。
「遅い」
新宿駅の東口広場。
莉奈は、スマホで時間を確認しながら、小さくため息をついた。休日の喧騒の中、彼女はいつものように短くしたタータンチェックのプリーツスカートに、ルーズソックスを履き、金髪のショートヘアを春の風に揺らしていた。
だが、以前と違うところが一つだけある。いつもなら三時間かけてギラギラにデコレーションしているはずのネイルが、今日はシンプルな薄いピンク色の単色塗りだった。
「ごめん、莉奈! 待たせた!」
人混みを縫って、息を切らした健一が走ってきた。相変わらず地味な私服に、新しいものに買い替えた黒縁メガネ。そしてその額には、莉奈が押し付けたウサギの絆創膏が、まだしっかりと貼られていた。
「五分の遅刻。命の恩人を待たせるとか、マジでいい度胸してんじゃん」
「ご、ごめん。乗り換えに手間取っちゃって……。傷の調子はどう?」
「とっくに塞がったわよ。若さ舐めないで」
莉奈はカーディガンの襟を少しだけ直した。あの青白い稲妻の代償は、三日ほど寝込んだら嘘のように消えていた。
「ほら、さっさと行くわよ。アタシ、喉カラカラなんだけど」
莉奈が顎で促した先に、あの日と同じ期間限定メニューの看板が出ていた。
十五分後。
テラス席のテーブルに、グランデサイズの『キャラメル・マカダミア・クランチ・フラペチーノ』が二つ並んでいる。
健一の財布から、なけなしの小遣いが飛んでいった結果だ。
莉奈はストローを咥え、思い切り吸い込んだ。
「……甘っ」
「だから言ったじゃないか、莉奈には甘すぎるって。普通のコーヒーにすればよかったのに」
健一が苦笑いしながら自分のフラペチーノに口をつける。
「バカじゃないの。あの極限状態の中で『絶対にあれを奢らせてやる』って執念だけで生き残ったんだから、これを飲まないとアタシのダンジョンは終わんないのよ」
莉奈は文句を言いながらも、もう一口、甘すぎる冷たい液体を喉に流し込んだ。喉が焼けるような暴力的な糖度。
でも、不思議と以前の放課後よりは、美味しく感じられた。
「なんか、夢みたいだね」
健一が、ふと真面目なトーンで呟いた。
「あんな映画みたいなバケモノと戦って、生き残って。こうしてまた、莉奈と一緒にフラペチーノを飲んでるなんて」
──また。
その一言に、莉奈の指先が一瞬だけ止まった。
父が出ていく夜、玄関で振り返って言った最後の言葉。「またな」あの「また」は嘘だった。二度と帰ってこなかった。
でも──健一の「また」は嘘じゃなかった。
本当に、また会えた。こうしてフラペチーノを飲んでいる。
一瞬の硬直は、すぐに溶けた。
「アンタが勝手に『一緒にフラペチーノ飲む』なんて死亡フラグみたいなこと言うからでしょ! アタシの力がなかったら、今頃二人ともあの牛の胃袋の中だったわよ」
「ははっ、違いない。莉奈には、敵わないよ」
健一は、本当に嬉しそうに目を細めた。
その顔を見て、莉奈はストローから口を離し、ふいっとそっぽを向いた。
「変に勘違いしないでよね」
「え?」
「アタシ一人じゃ、絶対に無理だった。アンタの『目』がなかったら、アタシは途中の罠で死んでたか、あの牛のバケモノに押し負けてた」
莉奈は、シンプルなピンク色のネイルを見つめながら、言葉を探していた。言いたいことは山ほどある。
でも、莉奈はあの暗闇の中で学んだのだ。
大事なことほど、言葉にすると嘘くさくなる。
だから莉奈は、テーブルの上に置いた自分の右手を、少しだけ健一のほうへ滑らせた。あの地下で、転移トラップに飲まれる瞬間に『避けた』手。
そして、地上への階段で『差し出した』手。
今は、テーブルの真ん中で、何でもないふりをして止まっている。
「ありがとね、健一」
最後の方は、街の喧騒に消え入りそうなほど小さな声だった。
だが、健一にはしっかりと届いていた。彼は少しだけ目を見張った後、顔を真っ赤にして、慌ててフラペチーノをストローでかき混ぜ始めた。
「ぼ、僕の方こそ! 莉奈がいなきゃ、路地裏のパイアのところで終わってたし! その……お互い様、だね!」
「そうね。おあいこ」
莉奈はふっと吹き出し、口角を上げた。
「でも、今回のフラペチーノの代金で、アンタの借金はチャラにしてあげる。優しいっしょ、アタシ」
「えっ、命の恩人の借金ってフラペチーノ一杯でチャラになるの!?」
「文句あんの」
「ないです、はい」
情けない声を出して笑う幼馴染を見て、莉奈もまた、心からの笑みをこぼした。
莉奈はふと、自分のネイルを見た。
シンプルな薄いピンク。ギラギラのスカル柄じゃない。三時間かけてデコる必要がなくなったのは、いつからだろう。
答えは分かっている。分かっているけど、口には出さない。
「さ、飲み終わったら行くわよ。次はカラオケね。もちろんアンタの奢り」
「ええっ!? 借金チャラになったんじゃないの!?」
「それはそれ、これはこれ。アタシの歌をタダで聴けると思わないことね」
莉奈は立ち上がり、空になったプラスチックのカップをゴミ箱に放り投げた。カフェの出口に向かおうとした、その時。
「──お嬢ちゃん!」
聞き覚えのある声に振り返ると、交差点の向こう側から、金属バットは持っていない青年が手を振っていた。山岸。隣には、いつも通り存在感の薄いパンツスーツの女性。小保内。
「アンタたち、なんでここに」
「バイトの帰り。この辺で新しく始めたんだ、居酒屋の」
山岸は、あの地下で莉奈を庇って負傷した左肩を、ぐるぐる回してみせた。傷跡はもう見えない。
「肩、治ったんだ」
「おかげさまで。ダンジョンの傷は、ダンジョンが消えたら勝手に治るみたいだな。便利っちゃ便利だけど、なんか釈然としない」
山岸は笑った。
あの地下で「同僚が転んだのに振り返れなかった」と静かに語った男が、太陽の下で屈託なく笑っている。日常に戻った人間の顔だ。
「小保内さんも元気そうですね」
健一が声をかけると、小保内はいつもの控えめな笑顔で頷いた。
「はい。職場に戻りました」
「先輩、職場で『あの日どこにいたの』って聞かれて困ってたよな」
「『地下にいました』って答えたら、みんな納得してくれました。嘘じゃないですし」
小保内が小さく笑う。「地下にいた」嘘ではない。ただし、その地下でモンスターに完全に無視される透明人間をやっていたことは、誰にも言えない。
莉奈は二人の顔を見ながら、不思議な気持ちになった。
たった四百メートルを一緒に歩いただけの青年と、名前しか知らなかった会社員。あの数時間がなければ、すれ違っても気づかなかった二人。
それが今、休日の新宿で偶然会って、普通に話している。
「ねえ、アンタたちもカラオケ来る? 健一の奢りだけど」
「えっ、僕の奢りが拡大してる!?」
「命の恩人割引で、四人分くらい余裕っしょ」
「余裕なわけないでしょ!」
山岸が腹を抱えて笑った。
「いいのか? お嬢ちゃんの歌、聴いてみたいな」
「聴くだけじゃなくて採点もしなさいよ。九十二点出すから」
「ハードル高いな。じゃあ先輩が歌ってくれ」
「私、人前で歌うのは……」
「スキルで気配消しながら歌えばいいんじゃないですか?」
健一の冗談に、四人が同時に吹き出した。
四人でカラオケ店に向かう。
莉奈が先頭、健一が半歩後ろ、山岸と小保内がその後ろ。渋谷の地下では莉奈が前衛で健一が後方ナビだった。今は、ただの高校生と青年と会社員の四人組。
武器もスキルもない、普通の休日。
莉奈はふと、振り返った。三人がついてきている。
二人だった世界が、四人になった。うるさくなった。でも──
「何ぼーっとしてんの。早く来なさいよ」
「お嬢ちゃんが振り返ったんだろうが」
山岸のツッコミに、莉奈は鼻で笑って前を向いた。
春のぬるい風が、金髪のショートヘアを揺らす。
神崎莉奈の憂鬱は、オレンジ色の夕焼け空の向こうへと、完全に溶けて消えていった。
* * *
二日後。
莉奈は自分の部屋のベッドに寝転がり、天井を見つめていた。テレビでは連日、渋谷のダンジョン化現象の特集がいまだに流れている。
莉奈はリモコンでテレビを消した。
学校も再開した。友達は相変わらず甲高い声で笑っている。ネイルを塗り直す時間も、カラオケも、全部元通り。
ただ一つだけ、変わったことがある。スマホの連絡先に「高橋健一」の名前が追加されていた。昨日、健一から「無事?」とメッセージが来て、莉奈は「当たり前っしょ」と返した。
それだけの、何でもないやりとり。でも、それがあるのとないのとでは、天井の色がほんの少しだけ違って見えた。
ニュースによれば、地下に取り残された生存者は全員救助されたという。
渋谷の地下街で見つかった人々も、全員。
あの時、健一がバリケードに置いていった水が役に立ったかどうかは分からない。でも、あの三人が地上まで戻ってきた。それだけで十分だった。
「平和だなぁ」
莉奈が目を閉じかけた、その時だった。
右手の甲が、チリッと痺れた。
「……え?」
莉奈は跳ね起きた。
消えたはずのステータス画面が、右手の上で淡く明滅している。
そこには、見覚えのない一行が表示されていた。
『EXAM選別:渋谷──合格。次の迷宮への参加資格が付与されました』
「イグザム……。試験、って意味じゃん。あの迷宮、最初から『試験』だったってこと?」
莉奈の背筋を、冷たいものが駆け上がった。
あのダンジョンが地獄のような試練だったのは間違いない。でも、誰かがそれを「出題」していたのだとしたら──採点していたのは、誰だ。
同時に、スマホが震えた。
健一からのメッセージ。たった一言。
『莉奈、右手見て』
右手の甲が、再び微かに痺れる。莉奈はそれを、左手で包むようにして押さえた。
スマホが震えた。健一からの二通目。
『明日、新宿のカラオケ空いてるかな。この前の借り、まだ返しきれていないし』
莉奈は、右手のステータス表示と、健一のメッセージを交互に見た。
数秒間、天井を睨んでから、指を動かした。
『あー、明日ね。いいけど、13時ね。遅刻したらぶっ飛ばす』
送信してから、莉奈はスマホを枕元に放り投げて、布団に潜り込んだ。
とりま、
次の迷宮がどうのこうのは、
まあ、
カラオケの後で考えればいい。
第一章 渋谷ダンジョン 了
『……で、なに。まだいたわけ。
ま、ここまで付き合ったんなら、
ブックマークくらい置いてけば。
次は新宿。……別に、来いとは言ってないから』
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第二章「新宿」へ続きます。
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