第23話 地上への階段と、オレンジ色の空
地下鉄の階段を登る足取りは、鉛のように重かった。
莉奈はひしゃげた鉄パイプを杖代わりにし、健一は壁に手をつきながら、一段一段、確かめるように登っていく。行きは転げ落ちるように駆け下りた道のりも、満身創痍の体で上るとなると、途方もなく長い道のりに感じられた。
「マジで、足もげるかと思った」
「僕はもう、全身の骨がバラバラになってる気分だよ。莉奈、肩貸そうか?」
「は? アンタ、自分がどんだけふらついてるか分かって言ってんの。アタシにもたれかかって一緒に転げ落ちる未来しか見えないんだけど」
憎まれ口を叩き合いながらも、二人の間には穏やかな空気が流れていた。
ダンジョン特有の、あの肌を刺すようなプレッシャーや、カビ臭い冷気はもう感じない。上へ行くにつれて、徐々に外の空気が混じり始めているのが分かった。
やがて、長いコンコースを抜け、地上へと続く最終階段の踊り場。
健一が強制解除して閉じた分厚い防火(防水)シャッターは、開いていた。ダンジョン化か解除されて、先にここから出た人たちが開けたのだろう。
そこから階段の奥へと差し込んでくる光を見て、莉奈は思わず足を止めた。
「紫じゃ、ない」
それは、ダンジョンを覆っていたあの毒々しい赤紫色の光ではなかった。
優しく、暖かく、そして見慣れた、夕暮れのオレンジ色だった。
「行こう、莉奈」
健一に促され、莉奈は最後の数段を登きり、地上へと顔を出した。
「っ」
吹き抜けた生ぬるい春の風が、莉奈の金髪をふわりと揺らした。血と硝煙の匂いは薄れ、代わりにアスファルトの匂いと、どこか懐かしい『街』の匂いが肺に流れ込んでくる。
空を見上げると、渋谷の街をすっぽりと覆っていた半透明の巨大なドームは、跡形もなく消え去っていた。代わりにそこにあったのは、一面を茜色に染め上げる、美しい夕焼け空だった。
視線を下ろせば、スクランブル交差点は相変わらず瓦礫の山で、横転したバスやひび割れたアスファルトが、ここで起きた異常事態の爪痕を物語っている。
しかし、そこを我が物顔で闊歩していたタロスの群れは、一体残らず跡形もなく消滅していた。アスファルトを突き破って生えていた不気味な水晶たちも、ダンジョンコアの破壊と連動したのか、根本から崩れ落ちてただの砂と化している。
遠くの方から、けたたましいサイレンの音が複数、こちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。警察か、消防か、あるいは自衛隊か。いずれにせよ、それはこの理不尽な空間に『現実』が戻ってきたことを意味していた。
その時、地下鉄の別の出口から、二つの人影がよろめきながら地上へ這い出してきた。
「──おい、お嬢ちゃん! 生きてたのか!」
山岸だった。金属バットを杖代わりにし、小保内を支えながら、瓦礫だらけのスクランブル交差点をこちらへ歩いてくる。
山岸は肩の傷に応急処置を施した跡があったが、小保内は──不思議なことに、埃すらほとんど被っていなかった。あれだけの地獄を潜り抜けてきたはずなのに、まるでモンスターの目に映っていなかったかのように。
「あんたたちがコア? を壊したのか? 急にモンスターが全部消えて、ドームも消えて……。109の地下でパニックになりかけたけど、なんとか出口を見つけた」
莉奈は、山岸の無事な姿を見て、自分でも意外なほどホッとしている自分に気づいた。たった四百メートルを一緒に歩いただけの、名前しか知らない青年男性。それでも、あの地下で生きていた人間が無事に地上に戻ってきたことが、コアを壊した意味を実感させてくれた。
「当たり前っしょ。アタシが壊したに決まってんじゃん」
莉奈がいつもの調子で返すと、山岸は一瞬呆気にとられた後、声を上げて笑った。小保内も、涙ぐみながら何度も頭を下げていた。
「──ねえ、金髪の子!」
声に振り返ると、救急隊員に肩を借りた大学生の女性がいた。
左足首には応急処置の包帯。
ベージュのネイルも、ちゃんと残っている。
女性は莉奈の前まで来ると、掌を開いた。
少し潰れたレモンタブレットのケースが乗っていた。
「これ、返す。……判定、していい?」
莉奈は一瞬だけ黙って、それから顎を上げた。
「どうぞ」
「英雄気取り」
「でも、ちゃんと戻ってきたから、合格」
「何それ。判定、甘すぎ」
女性が笑った。
莉奈もほんの少しだけ口元を緩め、ケースを受け取ってポケットに戻した。
「終わったんだね、本当に」
健一が、夕日を眩しそうに見上げながら呟いた。
「そうね。アタシたちの、長くて最悪な放課後」
莉奈は、ここまで杖代わりにしてきたボロボロのひしゃげた鉄パイプを、カラン、とアスファルトの上に投げ捨てた。
もう、武器は必要ない。
スキルも、ステータス画面も、黄金の雷も、全てあの地下に置いてきた。
今の莉奈は、ただの制服がボロボロになった、金髪の女子高生だ。
「ねえ、健一」
「ん?」
莉奈は、夕日に照らされた自分の右手を見た。
パイアを殴り飛ばし、ミノタウロスの胸を貫いた手。そして、暗闇の中で、この幼馴染の手を『避けて』しまった手。
莉奈は、少しだけ躊躇った後、その右手を健一の方へと差し出した。
「アタシ、一人じゃ歩けない。肩、貸して」
健一は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んで、莉奈のその手をしっかりと握り返した。
「うん。お疲れ様、莉奈」
「健……。アンタもね」
夕日に照らされた崩壊したスクランブル交差点を、二人は肩を寄せ合いながら、ゆっくりと歩き出した。
サイレンの音が、少しずつ大きくなってきていた。




