第22話 砕け散るコアと、不器用な嘘の答え合わせ
ミノタウロスの巨体が光の粒子となって消滅し、静寂が戻った渋谷駅の元・半蔵門線プラットホーム。
「終わった……の?」
莉奈はへたり込んだまま、自分の両手を見つめた。
青白い雷光はすでに消え失せ、代わりに全身を襲うのは、鉛のような疲労感と、骨の芯まで軋むような激痛だった。
HPは残り『1』
文字通り、首の皮一枚で繋がっている状態だ。
すぐ横では、健一が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、莉奈の無事を噛み締めるように何度も頷いている。
だが、安堵に浸る間もなかった。
ピキッ……
ピキキキキキッ、!!
空間の奥深くから、硬質なものがひび割れるような嫌な音が響いた。
二人がハッとして顔を上げると、プラットホームの最奥に鎮座していた巨大な赤紫色の水晶──ダンジョンコアに、蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。
「莉奈、あれ……」
「……ボス? が倒されて、ここを維持できなくなったんでしょ。離れて、健一!」
パァァァァンッ!!!
莉奈が叫んだ直後、甲高い破砕音と共に、巨大なダンジョンコアが粉々に砕け散った。飛び散った無数の破片は、床に落ちる前に淡い光の粒子へと変わり、ミノタウロスと同じように空気に溶けて消えていく。
同時に、周囲の空間を支配していた、あの息が詰まるような濃密な魔力と、血の匂いが、嘘のように霧散していった。
チカッ……
チカチカッ。
暗く沈んでいた天井の蛍光灯が、何度か瞬いた後、見慣れた白い光を取り戻した。非常灯の緑色ではなく、日常の、ただの地下鉄のホームの明かり。
ひしゃげていたはずの線路やコンクリートの柱も、まるで幻だったかのように、元通りの姿に戻っている。
「直ってる」
健一が、痺れた手で宙のステータス画面を呼び出した。
「マップ上のモンスターの反応も、全部消えていく……。スクランブル交差点にいたタロスたちも、完全に消滅したみたいだ。ダンジョンが、終わったんだ」
健一の言葉に、莉奈は深く、深く息を吐き出し、そのまま冷たい床に大の字に寝転がった。
「はぁー、最っ悪の放課後。マジで疲れた」
制服はボロボロ。
昨日時間をかけてデコったネイルも、いくつかは剥がれたり欠けたりしている。
でも、生きている。生きて、この『ダチ』と一緒に、日常に帰れる。
健一は、寝転がった莉奈の隣に、ちょこんと体育座りをした。二人の間に、しばらくの間、穏やかな沈黙が流れた。
遠くで、電車の接近を知らせるアナウンスの幻聴すら聞こえそうな、平穏な静寂。
健一は、リュックからあの手製メモを取り出し、ぼんやりと眺めた。
渋谷の地下鉄路線図の裏に、ボールペンで書き殴った安全ルートとモンスターの配置。そして、隅に小さく書き込んだ仮説『ハチ公像→起点?』の文字。
「やっぱり、そうだったのかもしれないな」
「何がよ」
「コアが砕けた瞬間、魔力の残滓が地上に向かって一直線に流れていったんだ。方角は……やっぱりハチ公口の真上。あの交差点で毎日、何万人もの感情が交差して、積もって、いつか臨界を超えた──それがこのダンジョンの正体だったのかもしれない」
莉奈は天井を見つめたまま、ふっと鼻で笑った。
「渋谷じゃなきゃ起きなかったってこと? この最悪な放課後」
「うん。多分ね。でも、渋谷じゃなかったら、僕と莉奈は再会してなかった」
健一はメモを折りたたみ、リュックにしまった。
あの仮説が正しかったのかどうか、証明する術はもうない。
でも、一つだけ確かなことがある。
ミノタウロスの魔石に莉奈の攻撃が届いた瞬間、健一の【解析】には魔力の流れが見えていた。
コアへ向かう流れと、魔石から地上──ハチ公口──へ向かう流れ。
その二つが交差した一点が、弱点だった。
渋谷という土地が生んだダンジョンは、渋谷を知る者の目にだけ、攻略の糸を見せたのだ。最初の路地裏から、ずっと紡いできた一本の糸。それが最後に、怪物の心臓まで届いた。
「なあ、莉奈」
ぽつりと、健一が口を開いた。
「何よ」
「さっき……ボスの部屋で、僕が『弱点が見つからない』って言ったの、覚えてる?」
「忘れるわけないっしょ。アンタの目が頼りだったのに、絶望しかけたんだから」
莉奈が目を閉じたまま答えると、健一は気まずそうに視線を泳がせ、やがてギュッと拳を握りしめた。
「あれさ、僕の解析、完全に役に立たなかったよね」
「は?」
莉奈は片目を開けて、健一を横目で見た。
「ボス戦、僕のスキルはノイズで何も読めなかった。弱点も分からなかった。莉奈が一人で見つけたんだ、あの魔石を。僕は、一番大事な場面で、何もできなかった」
健一は一度言葉を切り、自分の手を見つめた。【光の盾】を張った時に裂けた掌の傷が、薄く残っている。
「でも、一つだけ決めたことがある。逃げないって。莉奈が戻ってきた時に、ここにいるって。それだけは……自分で決めた」
「……」
「スクランブル交差点の時は、莉奈に胸ぐら掴まれなきゃ分からなかった。囮になるなんて馬鹿なこと言って。でも今回は、自分で考えて、自分で立ち止まったんだ。それだけが、僕にできた全てだった」
莉奈は黙って聞いていた。
あの戦闘の最中、完全に無力化された健一が、それでも逃げずにあの場所に残っていた。意識を失いかけた時に「莉奈ッ!! 押し切れぇぇッ!!」と叫んだ声が、確かに聞こえた。
「ふーん」
莉奈はゆっくりと上半身を起こし、健一の顔をじっと見た。
「弱点はアタシが見つけた。けど、アンタが『胸のあたりが違う』って叫んでくれなきゃ、あの赤い光に気づけたか分かんない。あのオタクの紙切れがなきゃ迷子になって終わってたし」
健一は目を丸くした。
「それにさ。アンタがイージスってやつ? で一発受けてくれたから、アタシはあの牛の動きを間近で見れた。振りかぶった時に胸が開くの、あれがなきゃ気づかなかった」
莉奈の口調は淡々としていたが、声の奥に確かな熱があった。
「アンタの解析が効かなかっただけで、アンタが役に立たなかったとは言ってないわよ。勝手に自己採点してんじゃないわよ」
健一は唇を震わせた。
泣きそうな顔を、必死に笑顔で押し返している。
「……ありがとう、莉奈」
「礼を言うのはこっちのセリフっしょ」
健一は目を丸くした。
莉奈に褒められたのは、ここに入ってから初めてかもしれなかった。
「アンタが嘘をついたのも、アタシを守ろうとしたのも分かってる。でもね、アタシが戻ってきた時、アンタは逃げずにアタシを庇った。それが全てっしょ」
莉奈は、自分のスクールバッグを引き寄せ、ポケットの中をごそごそと探った。指先に触れたのは、今朝、靴擦れした時のために無造作に突っ込んでおいた絆創膏。ウサギのキャラクターがプリントされた、莉奈が中学の頃から愛用している柄だ。
莉奈はそれを取り出すと、健一の額の傷、彼が莉奈を庇って吹き飛ばされた時にできた傷跡に、ペタッと容赦なく押し付けた。
「痛っ!」
「血だらだらのヤツと一緒に地上歩いてたら、アタシがDVしたみたいに見えて体裁悪いでしょ。隠しときなさい」
「えっと、これ」
健一は、額に貼られたウサギの絆創膏に触れ、目を瞬かせた。
「なんか文句あんの」
「いや……なんでもない。ありがとう、莉奈」
健一は、嬉しそうに、そして少しだけ照れくさそうに笑った。
そんなことを知っている自分にも、この状況でキャラクター物の絆創膏を出してくる莉奈にも、どうしようもなく「日常」を感じていた。
「ほら、さっさと立つ。帰るわよ」
莉奈は立ち上がり、スカートの埃を払った。まだ足元はおぼつかないが、不思議と心は軽かった。
二人は並んで、地上へと続く長い階段を上り始めた。
ボロボロになった鉄パイプを杖にしなければ歩けないほど傷ついている。
それでも、ここに来る前にあった二歩の距離は、もうなかった。




