第2話 迫り来る獣の悪意と、黄金の雷鳴
ギギ、ギギギ……。
路地裏に響くのは、猪の化け物たちが鼻先から漏らす荒い鼻息だけだった。血走った小さな目が莉奈と健一を値踏みするように見据えている。剛毛の隙間から覗く皮膚は、乾いた泥と、得体の知れない生臭さに覆われていた。
「り、莉奈……逃げよう。あんなの、僕らじゃどうにも、」
背後で、健一がひきつった声で懇願する。
彼の言う通りだ。どう見ても勝てる相手じゃない。相手は刃物を持った三匹の化け物で、こちらは素手の女子高生と、運動神経ゼロのオタク男子。絶望的な戦力差なんて、計算するまでもない。
「逃げるって、どこに? この謎ドームの外に出られると思う? さっき群衆がドームの壁に触れた瞬間、弾き飛ばされてたの見たでしょ。あれは出口じゃない、檻の壁よ」
莉奈は、自分でも驚くほど冷徹な声で言い返した。視線を化け物たちから外さずに、距離を測る。十メートル、八メートル。三方向から、じりじりと距離を詰めてくる。
逃げ道なんてない。路地裏の入り口側はパニックになった群衆で溢れかえっており、下手に飛び込めば将棋倒しに巻き込まれる。かといって奥は行き止まりだ。それに、腰を抜かしてへたり込んでいる健一を連れて逃げるのは、どう考えても不可能だった。
(……置いていく? アタシ一人なら、あいつらをやり過ごして逃げられるかもしれない)
生存本能がそう囁く。一人のほうが生き残れる。それは事実だ。
だが、莉奈の足は動かなかった。動かなかったというより、無意識のうちに、健一をかばうように半歩前に出てしまっていた。
「っ、馬鹿みたい。アタシ、何やってんの」
悪態をついたその瞬間。
正面の一匹が、前脚で地面を掻く予備動作もなく──弾丸のように突進してきた。
「ひぃっ!!」
健一が悲鳴を上げて頭を抱える。低い姿勢のまま猛スピードで迫る猪の化け物が、黄ばんだ牙を剥いて莉奈の脚を狙う。
避けられない。死ぬ。
莉奈がそう覚悟して、ギュッと目を閉じた直後。
──
本日の渋谷をご利用いただき、ありがとうございます。
お客様:神崎莉奈の【クラス:魔闘家】を解放いたします。
固有スキル【雷纏】をお受け取りください
──
脳内に、渋谷駅の案内放送をそのまま不気味にコピーしたような合成音声が響いた。
「……え?」
意味がわからない。
だが、次の瞬間、莉奈の身体の内側から、爆発的な熱量がこみ上げてきた。心臓がドクンと大きく跳ね、血液の代わりに高圧電流が全身の血管を駆け巡るような、暴力的な全能感。
気がつけば、莉奈の身体は勝手に動いていた。路地のゴミ捨て場に転がっていた、粗大ゴミの鉄パイプ。それをルーズソックスに包まれた足で器用に蹴り上げ、宙に浮いたところを右手でガシッと掴む。
金属の冷たさが掌に触れた瞬間。
バチバチバチッ!!
「っ!?」
莉奈の指先から、眩い黄金色の火花が迸った。雷光は瞬く間に鉄パイプ全体を包み込み、暗い路地裏を真昼のように照らし出す。
「──邪魔」
声に出したのは、たった一言。
莉奈は、突進してきた猪の化け物に向かって、雷を纏った得物を無造作に振り抜いた。
腕から頭のてっぺんまで、全身の骨が共鳴するように震えた。
鉄パイプが猪の化け物の牙と激突した瞬間、黄ばんだ牙は飴細工のようにあっさりと砕け散った。それどころか、止まらない鉄パイプの軌道は化け物の頭蓋を真横から薙ぎ払い、金色の雷撃がその身体を貫いた。
「ギャガッ!?」
断末魔の叫びを上げる暇もなかった。雷撃を受けた化け物の身体は、一瞬にして光の粒子──ポリゴンのような破片となって、空中に霧散したのだ。
「……嘘、でしょ」
莉奈自身が一番驚いていた。
あんな重そうな鉄パイプを、まるで木の枝のように軽く振り抜けた。そして、化け物を一撃で『消滅』させた。
だが、感傷に浸っている暇はない。仲間の死(?)を見て怯んだ残りの二匹が、慌てて距離を取ろうとする。
「逃がすかよ……ッ!」
莉奈は地面を蹴った。
あり得ないスピードだった。数メートルの距離を瞬きする間に詰め、二匹目の鼻面を得物で下からカチ上げる。再びポリゴンの破片が散る。最後の一匹がヤケクソで突進してきたが、莉奈は最小限の動きで横に躱し、すれ違いざまに回し蹴りを化け物の脇腹に叩き込んだ。
莉奈の足裏から伝わった衝撃が、靴底越しに地面を震わせた。三匹目の化け物は声も上げられぬまま、線香花火のように静かに光の粒へ散っていった。
静寂。
路地裏には、莉奈の荒い息遣いと、得物から漏れる微かな放電の音だけが残された。
「……終わった、の?」
莉奈は、ジンジンと熱を持ち、微かに痺れている自分の右手を見つめた。魔法陣もない、呪文も詠唱していない。ただ、自分の中に生まれた『力』をぶつけただけ。
莉奈の指先が、得物を握ったまま細かく震えていた。いつものようにデコった指先で汗ばんだ金髪をかき上げ、目元に力を入れて、精一杯の「不機嫌そうな顔」を作って振り返る。
そこには、口をポカンと開けて、へたり込んだままの健一がいた。
「……いつまで座ってんのよ。みっともないんだけど」
「り、莉奈……今のは、君から、雷が、」
「……知らない。けど、助かった。それでいいでしょ」
莉奈は、ため息をつきながら健一の前に立ち、右手を差し出した。
「ほら、立てる?」
健一は恐る恐る、莉奈のその手を取った。引き上げようと力を込めた瞬間、健一は気づいた。化け物を一蹴したその無敵の右手が、小刻みに、可哀想なくらい痙攣していることに。
「勘違いしないで。アンタがここで死なれたら寝覚め悪いの。それだけ」
莉奈はツンと顎を上げて、そう吐き捨てた。
強がりだということは、健一にもすぐに分かった。けれど、彼はそれを指摘するほど野暮ではなかったし、何より彼自身もまだ震えが止まっていなかった。
「……ありがとう、莉奈」
紫色のドームに閉じ込められた渋谷。わけのわからないと合成音声とスキル。そして、蔓延る怪物たち。
金髪ショートのギャルと、地味なオタク男子の、絶望的なサバイバルが幕を開けた瞬間だった。




