第1話 新作フラペチーノと、唐突すぎる世界の終わり
「……甘っ」
神崎莉奈は、ストローから口を離して小さく呟いた。今日から発売された期間限定の『キャラメル・マカダミア・クランチ・フラペチーノ』SNSでバズっていたからとりあえず買ってみたものの、甘党ではない莉奈にとっては、喉が焼けるような暴力的な糖度だった。
放課後の渋谷センター街は、いつものように人でごった返している。制服崩しのルーズソックスに、短く詰めたプリーツスカート。金髪のショートヘアを春先のぬるい風が撫でていく。
莉奈は、スマホの黒い画面を鏡代わりにして、前髪の崩れを直した。そのついでに、昨日三時間かけてデコレーションしたばかりの、ギラギラと光るスカル柄のネイルを視界の端で確認する。
完璧。
今日もアタシは、誰にも舐められない『完全武装』だ。
周りを歩く同年代の女子高生たちは、甲高い声で笑い合いながらタピオカだのプリクラだのと騒いでいる。莉奈はその輪に入る気は全くなかった。一人は楽だ。
他人の機嫌を取る必要もないし、裏切られる心配もない。「莉奈ちゃんって、ちょっと怖いよね」そんな陰口が聞こえてきても、痛くも痒くもない。むしろ好都合だ。他人に踏み込まれないためのバリアとして、この金髪も、派手なネイルも、不機嫌そうな態度も、全てが機能している。
怖いときほど、退屈そうなフリをする。
泣きたいときほど、爪を派手に塗る。
それが、中学のときに父親が女を作って家を出ていった夜から、莉奈が身につけた唯一の処世術だった。
「さてと。カラオケでも行って、適当に時間潰すかな……」
ヒトカラは莉奈の数少ない趣味のひとつだった。誰に聴かせるわけでもない歌を、防音の箱の中で好きなだけ叫ぶ。採点機能で九十点を超えたところで褒めてくれる人間はいないが、それでいい。自分の声が自分の耳に返ってくるだけの、完結した娯楽。
センター街の雑踏を縫うように歩いていると、見覚えのある制服の集団が前方から歩いてきた。同じクラスの女子が四人、腕を組んだり肩をぶつけ合ったりしながら、何かの動画を見てケラケラ笑っている。
莉奈は無意識にスマホを持ち上げ、画面を見るフリをしながら歩調を変えた。向こうも莉奈に気づいたらしく、一瞬だけ視線がこちらを掠めて、すぐに逸れた。声はかけてこない。莉奈も、かけない。それが、一年かけて築き上げた完璧な距離感だ。
すれ違いざま、笑い声の断片が耳に飛び込んできた。
「──で、そのときユキが転んでさ、もうマジ最悪でー」
「ウケる! 写真撮った?」
「撮ったけど載せたら殺されるって!」
四人の背中が人混みに溶けていく。
莉奈はスマホの画面から顔を上げた。LINEの通知はゼロ。トーク一覧の一番上には、母親との事務連絡のやり取りが表示されている。最後のメッセージは三日前、『晩ごはんいらない』の数文字。既読はついているが、返信はない。
莉奈はスマホをポケットにしまい込んで、甘すぎるフラペチーノを一口、意地でストローに吸い付いた。でも、口の中が甘ったるい方が、喉の奥のざらつきを誤魔化せる気がした。
スクランブル交差点の信号が青に変わり、四方八方から人間の波が押し寄せてくる。何百人とも思え程の他人とすれ違い、肩がぶつかり、誰一人として目を合わせない。
渋谷はそういう街だ。
どれだけ人がいても、誰もアタシを見ていない。それは莉奈にとって、気楽であると同時に──ほんの少しだけ、息苦しかった。
交差点を渡り切ったとき、ふと足を止めた。道玄坂の手前にある古びたガチャガチャの前で、小学生くらいの女の子が、父親に肩車されてカプセルを回していた。女の子がカプセルの中身を見て歓声を上げ、父親の頭を両手でバンバン叩いている。父親は痛そうに笑いながら、「よかったな」と言っている。
莉奈は、視線を逸らした。
デコレーションしたばかりのスカル柄のネイルを、無意識に握り込む。爪の先が掌に食い込んで、少しだけ痛かった。
飲みきれないフラペチーノを持て余しながら歩き出した、その時だった。
──ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
足元から、内臓を直接揺さぶられるような低い地鳴りが響いた。最初は、少し大きめの地震かと思った。センター街を歩いていた人々が一斉に足を止め、不安げに周囲を見回す。ビルの巨大ビジョンから流れていたアイドルのMVの音が、不自然に途切れた。
「え、なに? 地震?」
「ヤバ、けっこう揺れてない?」
どこからか、そんな呑気な声が聞こえた直後。
足の裏から、胃袋の底まで貫くような衝撃が突き上げた。
莉奈のわずか数十メートル先、センター街のど真ん中のアスファルトが、内側からの途方もない圧力に耐えかねたように爆発的に隆起した。
「……は?」
莉奈は目を丸くした。砕け散ったアスファルトの破片が、スローモーションのように宙を舞う。周囲の人間たちの悲鳴が、まるで水の中にいるようにくぐもって聞こえた。
地面の亀裂から突き出してきたのは、見たこともないほど巨大な『水晶』だった。ビルの三階ほどの高さまで一気に伸びたその結晶体は、不気味な赤紫色に発光し、周囲の空気をびりびりと震わせている。
「きゃあああああっ!?」
「逃げろ! なんだあれ!」
一瞬の静寂の後、爆発的なパニックが巻き起こった。
人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。悲鳴、怒号、誰かが転倒する音、ショーウィンドウが割れる音。莉奈は、その狂乱のど真ん中で、金髪を指先でいじりながら立ち尽くしていた。
(……何これ。映画の撮影? それとも、新手のドッキリ?)
そんな現実逃避の思考は、次の瞬間に打ち砕かれた。
──ブゥンッ……。
空気が鳴動する音がしたかと思うと、渋谷の街を覆い尽くすように、半透明の『ドーム』が出現したのだ。赤紫色の水晶から放たれた光が、網目のように空を覆っていく。見上げれば、春の青空はすっかり遮断され、毒々しい紫色に染まっていた。
莉奈は慌ててブレザーのポケットからスマホを取り出す。圏外。何度リロードしても、アンテナは一本も立たない。
「……マジか。現代ダンジョン化現象、ネットの都市伝説じゃなかったってこと?」
呟いた声は、自分でも驚くほど冷たく、そして冷静だった。パニックを起こす余裕すらないのかもしれない。鼓動は早鐘のように打っているのに、頭の芯だけが異様に冷え切っている。こういうとき、取り乱さないのが莉奈だ。
怖いときほど、虚勢を張る。
「おい、押すなよ!」
「助けて! 足が……っ!」
暴徒と化した群衆が、莉奈の肩にぶつかっていく。バランスを崩しそうになった莉奈は、舌打ちをして路地裏へと身をかわした。大通りにいたら、得体の知れない現象よりも先に、パニックになった人間に踏み潰されて死んでしまう。
薄暗い路地裏に入り、壁に背中を預けて大きく息を吐く。
ドクン、ドクンと、自分の心臓の音がうるさい。
「最悪。せっかくのネイルが欠けたし」
強がりを口にしながら、震える手を押さえつけようとしたとき。路地の奥から、バサッ、と何かが落ちる音がした。
ビクッとして顔を上げると、そこには見慣れた黒髪の少年がへたり込んでいた。足元には、散乱した参考書やライトノベル。地味な黒縁メガネの奥の瞳が、恐怖で見開かれている。
「……健一?」
高橋健一。小学校からの幼馴染だ。本屋の帰りなのだろう。いつもなら「よっ」と軽く挨拶して、互いに干渉せずすれ違う程度の距離感。だが今は、そんな日常のルールなど通用しない。
「り、莉奈……! な、なんだよこれ、外が、空が、!」
健一はガタガタと歯を鳴らしながら、莉奈にすがりつくように這い寄ってきた。その情けない姿を見て、莉奈の胸の奥で、恐怖とは別の感情、苛立ちのようなものが湧き上がった。
「落ち着きなさいよ。アタシだって分かんないし」
冷たく言い放ち、莉奈は路地の奥へ視線を向けた。健一が怯えていたのは、空の色や巨大な水晶だけではなかったのだ。
ビルの隙間の暗がりから、ズルリ、ズルリと『それ』が這い出してきた。
赤茶色の剛毛に覆われた、犬ほどの大きさの獣だった。
潰れた鼻面から突き出す二本の黄ばんだ牙。血走った小さな目が、暗がりの中でギラリと光っている。
猪──いや、猪にしては前脚が異様に太く、爪が鉤のように湾曲していた。ゲームや絵本で見たことのある怪物には当てはまらない。名前の分からない、ただただ醜悪な化け物だった。
「ブヒュッ……ブヒュルルッ、」
低い唸り声を漏らしながら、三匹の猪の化け物が莉奈たちを扇状に囲むように散開していく。じりじりと距離を詰める動きは、野生の捕食者そのものだった。
「ひぃっ……!」
健一が短い悲鳴を上げ、後ずさる。
莉奈は、自分の足もすくんでいることを自覚した。逃げなければ。そう頭では分かっているのに、蛇に睨まれた蛙のように身体が動かない。
新作のフラペチーノは、もう二度と飲めないかもしれない。
そんな場違いな思考が、紫色の空の下で、莉奈の脳裏を掠めていった。




