第18話 一人じゃない理由と、反逆の狼煙
スローモーションのように、規格外の戦斧が天高く振り上げられる。
莉奈は、冷たいコンクリートの床にへたり込んだまま、その絶望的な光景を見上げていた。すぐ横には、額から血を流し、ピクリとも動かなくなった健一が倒れている。彼の眼鏡は衝撃でひし形に歪み、レンズには無惨なヒビが入っていた。
『──ブモォォォォォォッ!!』
ミノタウロスが勝利を確信したような咆哮を上げる。その凶悪な声が地下空間に反響し、莉奈の鼓膜を容赦なく揺さぶった。
(……ああ、終わるんだ)
莉奈の頭の片隅で、ひどく冷めた思考が囁いた。
MPは枯渇し、全身の骨が軋むように痛い。立ち上がる力すら残っていない。強がって、虚勢を張って、誰も頼らずに一人で生きていけると思っていた。でも、現実はこれだ。
自分の無力さと慢心が、ただ一人、自分を一度も裏切らなかった幼馴染を巻き添えにしてしまった。
──ぽたっ。
莉奈の頬に、温かい液体が落ちた。見上げると、それはミノタウロスの戦斧から滴り落ちた、先ほどまで彼が屠ってきたであろうモンスターたちの赤黒い血だった。
血の匂いが鼻を突いた瞬間。莉奈の脳裏に、健一が【光の盾】を展開し、自分を庇って前に立ち塞がったあの背中がフラッシュバックした。
『まだ歩ける?』
暗闇の縦穴で、莉奈がくれたたった一言。怒りでも優しさでもない、ただ真っ直ぐな問いかけ。運動神経ゼロで、ビビリで、泣き虫で。小学生の頃から、いつも少し後ろを歩いていた地味なオタク男子。それなのに、彼は今日、一番怖い場面で莉奈の『前』に立ち、その身を盾にしてくれたのだ。
「っ」
莉奈の視界が、急にぐにゃりと歪んだ。
涙だった。
思い出したのは、父親が出て行った夜ではなかった。中二の冬、クラスで唯一話しかけてくれた女の子に「アタシに構わないで。迷惑なの」と吐き捨てた放課後だ。あの子の傷ついた顔を、莉奈は今でも覚えている。
自分が傷つきたくないから、先に相手を突き放した。今、自分は同じことを、この暗闇の中で繰り返そうとしていないか。
(……なんでよ)
莉奈は、震える手で健一の学生服をギュッと握りしめた。
(なんで、アンタみたいなバカが、アタシのために死にそうになってんのよ)
(……アタシは、一人が怖かったんじゃない。こいつがいない世界が、嫌なんだ)
それは拒絶ではなく、選択だった。
誰かに裏切られるのが怖いから離れないのではない。この不器用な幼馴染と一緒にいたいから、ここに立つ。
理不尽だ。
このダンジョンも、あのバケモノも。
そして何より、自分勝手に一人で諦めようとしている自分自身が、
一番許せなかった。
『警告:魔力が完全に枯渇しました。これ以上のスキルの使用は、生命力を著しく削──』
脳内で鳴り響くシステム音声を、莉奈は「うるさい」と一蹴した。
生命力が削れる? だから何だ。
ここで立ち上がらなければ、自分は一生、自分自身を許せない。
ギリッ、と奥歯を噛み締める。
莉奈は、震える指先で、床に転がっていた鉄パイプを再び握りしめた。
重い。ただの鉄の塊が、今の莉奈には鉛のように感じられた。
だが、莉奈はそれを杖代わりにして、フラフラと、しかし確かな意志を持って立ち上がった。
「……アタシの」
振り下ろされようとしていた戦斧の軌道上に、莉奈は自ら歩み出た。
「アタシの大事なダチに──手ェ出してんじゃねーよ!!」
それは、悲鳴でも、強がりでもなかった。
神崎莉奈という一人の少女の魂から絞り出された、純粋な
『怒り』の咆哮だった。
ギャルとしての意地。人間としての矜持。
そして、自分を信じてくれた唯一の相棒への、絶対的な肯定。
その瞬間だった。
分断された迷宮で、迷いながらも戦い続けた身体。意図せず蓄積された経験値が広げたスキルの器。その器の底に、魔力とは全く別の次元のエネルギーが眠っていた。
莉奈の覚悟が、その蓋をこじ開けた。
バチッ……!
枯渇していたはずの莉奈の右手から、火花が散った。しかし、それはこれまで纏っていた「黄金色」の雷ではなかった。チリチリと空気を焦がすような、冷たくて、それでいて全てを焼き尽くすような、青白い閃光。
『──渋谷より、特別なお知らせを申し上げます。お客様:神崎莉奈の限界突破を確認いたしました。固有スキル【雷纏】を【迅雷紫電】へ昇格いたします。どうぞ、存分にお使いください──』
案内放送の声が、初めて感情を持ったように、静かに告げた。
「……ッ!!」
莉奈の金髪が、静電気でブワッと逆立つ。全身の血管を駆け巡る青白い稲妻が、莉奈の身体を包み込み、プラットホームの暗闇を白昼のように照らし出した。
ミノタウロスが、目の前の獲物から放たれる異常なプレッシャーに気づき、戦斧を振り下ろす手を一瞬だけ止めた。その、ほんのわずかな躊躇いが──怪物の運命を決定づけることになる。
莉奈は、青白い雷を纏った鉄パイプを構え、ミノタウロスの赤い眼光を真っ向から睨み返した。
彼女の瞳に、もう絶望の影はなかった。




