第17話 再会と、絶望の戦斧
「健一ッ!!」
錆びついた防火扉を蹴り開け、莉奈は元・半蔵門線のプラットホームへと転がり込んだ。空間を支配する血と獣の悪臭。そして、中央で戦斧を振り回す三メートル超えの巨体。
ミノタウロスの赤い眼光が、ひしゃげた自動販売機の陰、健一が隠れている場所へと向けられていた。健一の【解析】による隠密行動も、あの獣じみた直感の前ではまるで通用しなかったらしい。ミノタウロスが太い鼻息を荒くし、自動販売機ごと健一を両断すべく、規格外の戦斧を振りかぶる。
「……させないっつーの!!」
莉奈は地面を蹴った。
残り少ない『8』のMPを絞り出し、右手の鉄パイプに金色の稲妻を纏わせる。距離は二十メートル以上。本来なら到底間に合わない距離だが、莉奈の身体は極限状態のアドレナリンで限界を超えていた。
バチィィィッ!!
稲妻の如きスピードでミノタウロスの懐に飛び込み、振り下ろされる戦斧の死角、がら空きの脇腹めがけて、渾身の力でパイプを叩き込む。
オゾンの焦げた匂いが鼻腔を焼き、一瞬遅れて衝撃波がプラットホームを舐めた。これまでパイアやタロスを一撃で粉砕してきた莉奈のフルスイング。それが、巨体の急所にクリーンヒットしたのだ。
(……やった!)
莉奈がそう確信した、次の瞬間。
『──ブルルルルッ』
ミノタウロスは、鬱陶しい羽虫でも払うかのように首を振り、ゆっくりと莉奈を見下ろした。その脇腹には、焦げ跡ひとつ、傷ひとつ付いていなかった。
「……嘘、でしょ」
莉奈は目を疑った。
交差点では一撃でタロスの膝を砕いた雷だ。MPは残っている。でも、威力を乗せるための何か──健一が言っていたエーテル? とかいうやつが、この場所では空っぽなのだ。身体で分かった。
ここでは、雷が死んでいる。
まるで分厚い鋼鉄の壁を殴ったような反動で、逆に莉奈の両手が麻痺し、パイプを取り落としそうになる。直後、ミノタウロスの丸太のような裏拳が、莉奈の身体を薙ぎ払った。
「が、はッ……!?」
受け身を取る暇もなかった。
莉奈の身体はボールのように吹き飛ばされ、コンクリートの柱に背中から激突した。
「ゴホッ!」と口から空気が絞り出され、肺がひしゃげたような激痛が走る。
視界が明滅し、床に崩れ落ちた。
「莉奈ッ!!」
自動販売機の陰から、健一が血相を変えて飛び出してきた。
「バカ……出てくんな、隠れて!」という莉奈の制止も聞かず、彼は転がるようにして莉奈の傍へ駆け寄り、その肩を抱き起した。
「莉奈、なんで……! 罠で別の場所に飛ばされたんじゃ!」
「アタシが、アンタを置いて……。一人で逃げるわけないっしょ。ナメんな、バカ健一」
血を吐きながら悪態をつく莉奈を見て、健一の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「ごめん、僕のせいで……っ。莉奈にまで、こんな無茶させて!」
「泣く暇があったら、あの牛の弱点教えなさいよ。アンタ、ゲームであいつと何回も戦ったことあるんでしょ!? 頭とか角とか、弱いとこあるでしょ!」
健一は首を横に振った。
その顔には、悔しさが滲んでいた。
「もう全部試した……! 莉奈がいない間、ずっと解析してたんだ。氷属性、頭部の角の付け根、ゲームで効くポイントは片っ端から……。全部ノイズで数値が返ってこない。こいつはゲームのミノタウロスとは別物だ」
「じゃあ何か分かったことはないの!?」
「一つだけ。全身の装甲を一箇所ずつ潰していったら、背面の筋肉層だけ数値が低かった。弱点かどうかは分からない。でも今のところ、唯一の手がかりだ」
莉奈は痺れた手で武器を握り直し、無理やり立ち上がろうとする。
だが、足に力が入らない。
次の瞬間だった。
ズシン、ズシンと、ミノタウロスが二人に向かってゆっくりと歩み寄ってきた。遊びは終わりだと言わんばかりの、純粋な殺意。振り上げられた巨大な戦斧が、非常灯の光を反射して赤黒く光る。
「逃げて、莉奈……!」
健一は、立ち上がれない莉奈の前に飛び出し、両手を広げて庇うように立ち塞がった。
「ちょっと、何やってんの! どきなさいよ!」
「僕のMPはまだ残ってる。一度だけなら……。防げるかもしれない!」
健一は、自分にしか見えないステータス画面を強く睨みつけた。スキル欄の隅で、あのグレーアウトされていた文字が、今、白く輝いている。読める。初めて、その名前が読めた。
『解放条件:守護の意志──達成』
『スキル【光の盾】が使用可能になりました』
(……そうか。逃げないと決めた時じゃない。この人を守ると決めた、今この瞬間が──)
「光の盾ッ!!」
健一が叫んだ瞬間、二人の頭上に、半透明の光り輝く障壁が展開された。
それは、正六角形が連なった、ハニカム構造のシールドのような、強固な魔力の壁だった。
直後、ミノタウロスの戦斧が、断頭台の刃のように振り下ろされる。
ギガァァァァァァァンッ!!!
凄まじい轟音。
戦斧の刃が【光の盾】に激突し、火花と魔力の破片が吹雪のように舞い散った。
「く、あああああっ……!」
健一は歯を食いしばり、両手を天に掲げてシールドを維持しようとする。
だが、戦力差は歴然だった。
レベル1の戦術士が張る最低限のバリアなど、ボスの理不尽な暴力の前では時間稼ぎにすらならない。
ピシッ……ピキキキキッ!!
ほんの数秒持ち堪えた後、ガラスにヒビが入るような嫌な音が鳴った。そして、光の盾は粉々に砕け散り、戦斧の衝撃波の余波だけで、健一の身体は後方へ吹き飛ばされた。
「健一ッ!!」
健一は莉奈のすぐ横の床に叩きつけられ、額から血を流してピクリとも動かなくなった。
「健一……。おい! 嘘でしょ、バカっ!」
莉奈は這いずるようにして健一の胸ぐらを掴み、揺さぶった。呼吸はある。
だが、気を失っている。
絶望。
その二文字が、莉奈の心を黒く塗り潰していった。
MPはほぼゼロ。
身体は満身創痍。
そして、唯一の頼りだった相棒は、自分を庇って倒れた。
「……アタシの、せいだ」
一人でなんとかできると慢心したこと。
足元の注意を怠り、無自覚な罠で離れ離れになったこと。
その全部が、今の状況を招いたのだ。
『──ブモォォォォォォッ!!』
ミノタウロスが、とどめを刺すべく再び戦斧を振り上げる。
もう、誰も助けに来ない。
逃げ道も、反撃の手段も、何一つ残されていない──はずだった。
その時、意識を失ったはずの健一のステータス画面が、暗闇の中でひっそりと白い光を放った。




