第16話 ナビゲーター不在の迷宮と、見えない恐怖
暗闇の連絡通路を、莉奈はただひたすらに走っていた。
「はぁっ、はぁっ……!」
埃っぽい空気を肺に吸い込み、ヒールのあるローファーで固いコンクリートを蹴る。どこへ向かっているのか、正確な道順は分からない。
ただ、微かに響いてくるミノタウロスの咆哮と、地鳴りのような重低音だけを頼りに、下へ、下へと続く道を探していた。
(……暗い。見えない。息が詰まる、!)
莉奈は、パイプを握る手にギリッと力を込めた。たった数十分前まで、この暗闇はこれほど恐ろしいものではなかった。なぜなら、自分のすぐ後ろには常に、危険を事前に察知して「右だ」「左だ」と声をかけてくれる相棒がいたからだ。
『ナビゲーター不在』という現実が、これほどまでに生存確率と精神力を削り取るものだとは、一人になって初めて痛感した。
「ッ!」
角を曲がった瞬間、不意に暗闇から生臭い風が吹いた。思考よりも先に身体が動き、莉奈は咄嗟に身を沈める。
直後、低い姿勢から弾丸のように飛びかかってきたパイアの牙が壁に激突して火花を散らした。
「ギギッ……!」
暗がりに、三つの黄色い眼球が浮かび上がる。
もし健一が一緒なら、角を曲がる前に「敵が待ち伏せしている」と警告してくれていただろう。奇襲を受けることもなく、有利な位置から先制攻撃を仕掛けられていたはずだ。
「……アイツ、どんだけアタシの目になってくれてたのよ、!」
莉奈は悪態をつきながら、地面を蹴ってパイアの懐へ飛び込んだ。MPは極力温存しなければならない。あのボスと戦うための、なけなしの『15』なのだ。
雷を纏わず、純粋な腕力と遠心力だけで武器を振り抜く。
パイアの一匹の頭蓋骨を叩き割るが、雷の魔力がないため一撃で光の粒子になってくれない。
「ギャァァッ!」と悲鳴を上げて痙攣する仲間を意に介さず、残る二匹が莉奈に飛びかかってくる。
「邪魔だっつーの!!」
莉奈は足を高く振り上げ、二匹目の顎を蹴り上げた。だが、暗闇で距離感を誤った。浅い。体勢を崩したパイアの爪が、莉奈の左腕を掠める。
「っ!」
制服のブレザーが裂け、肌に鋭い痛みが走った。血が滲むのを感じたが、立ち止まっている暇はない。莉奈は痛みを無視してパイプを逆手に持ち直し、パイアの脳天へ力任せに突き立てた。
ようやく二匹が跡形もなく消滅し、淡い燐光を残して消えていく。
「はぁっ……はぁっ、」
莉奈は荒い息を吐きながら、左腕の傷を押さえた。たった三匹のパイア相手に、被弾した。健一のナビがあった時は、完全無傷で切り抜けていたというのに。
(……あいつがいないだけで、こんなに暗いのかよ)
強がりで塗り固めていた自分の弱さが、暗闘の中で浮き彫りになる。莉奈は、痛みで滲む涙を乱暴に拭い去り、再び走り出した。
待ってなさいよ、バカ健一。
アタシが着くまで、絶対に死ぬんじゃないわよ。
だが、走り出した直後に足が止まった。
どっちだ。
左右に分岐した通路の前で、莉奈は歯を食いしばった。健一のナビがなければ、どちらが正解か分からない。勘で選んで行き止まりだったら、時間もMPも削られる。
その時、足元に白いものが見えた。
小さな紙片。
壁際に、瓦礫の欠片で押さえるようにして置かれていた。拾い上げると、見覚えのある下手くそな字で矢印が一つだけ書かれている。
左。
「……健一の、字じゃん」
左の通路に駆け込むと、二十メートル先にまた一枚。
その先にも。ちぎったメモ帳のページが、分岐点ごとに置かれている。
いつの間にこんなものを──。
莉奈は一度も気づかなかった。健一がずっと、黙って紙を置いていたのだ。スキルが消えた時のために。はぐれた時のために。
「紙……」
「かみっ!」
莉奈は走りながら、笑っているのか泣いているのか分からない声を漏らした。
アイツ、マジで神かも。
紙片を追って暗い通路を駆け抜ける莉奈の足取りは、さっきまでとは別人のように速かった。
* * *
一方その頃。元・半蔵門線のプラットホーム。
「ひぃっ……!」
健一は、ひしゃげた自動販売機の陰に身を潜め、ガタガタと震えながら口を両手で塞いでいた。数十メートル先では、三メートルを超える巨躯のミノタウロスが、獲物を見失って苛立ったように戦斧を振り回している。
ズガァァァァンッ!!
戦斧がホームのコンクリートの柱を粉砕し、瓦礫が健一の頭上にパラパラと降り注いだ。あの斧が掠っただけで、自分の身体はミンチになる。
恐怖で心臓が破裂しそうだった。
(莉奈が、罠に飛ばされた……)
残された健一は、絶望の淵に立たされていた。
戦闘能力はゼロ。手元にあるのは【解析】スキルだけ。スキル欄の隅でグレーアウトしたままの、名前すら読めないもう一つのスキル。解放条件は『守護の意志』。あの迷宮を歩きながら、ずっと気になっていた項目だ。だが、意志だけでスキルが解放されるなら、とっくに使えているはずだった。
『どうする。逃げるか?』健一の脳内で、生存本能が囁く。【解析】を使えば、ボスの視線をかいくぐって螺旋階段まで逃げ切るルートを見つけられるかもしれない。莉奈がどこに飛ばされたかは分からないが、少なくとも自分一人は生き延びる確率が上がる。
だが、健一はギリッと奥歯を噛み締めた。
(……逃げない。絶対に)
健一は、あの暗闇の縦穴で莉奈に肩を叩かれた感触を思い出していた。
強くもなく、弱くもない、乾いた一撃。そして「まだ歩ける?」というたった一言。あの時、莉奈は健一の自己卑下を許さなかった。同時に、慰めもしなかった。
ただ、次の一歩を求めた。
もし自分がここで逃げて、莉奈が戻ってきた時に誰もいなかったら。彼女はきっと、自分がミノタウロスに殺されたと思って絶望するだろう。あるいは、自分の身勝手な自己犠牲を、心底軽蔑するだろう。
「……莉奈は、絶対にここへ戻ってくる」
健一は震える指でメガネを押し上げ、宙に浮かぶ【解析】のウィンドウを睨みつけた。
『個体名:ミノタウロス』
『レベル:???』
『HP:???/???』
『弱点:???』
ステータスは相変わらず文字化けしている。だが、健一は諦めなかった。オタクの意地だ。
どんな理不尽なクソゲーにも、必ずシステム上の『穴』か『ギミック』が存在する。
まず頼ったのはゲームの知識だった。
ミノタウロスならRPGでもアクションゲームでも何十回と戦ってきた。
氷属性、頭部の角の付け根、突進後の硬直。
定番の攻略法を片っ端から【解析】に当てはめた。
だが、返ってくるのは全てノイズ。
数値すら表示されない。
ゲームのミノタウロスと、目の前の怪物は別物だった。
(ゲームの常識は捨てろ。目の前のデータだけで考えるんだ)
弱点の表示は『???』
ノイズがかかって読めない。だが、逆に考えろ。
弱点が読めないなら、弱点じゃない場所を全部潰せばいい。
健一は【解析】の焦点を、ミノタウロスの全身に一箇所ずつ当てていった。
右腕の筋繊維密度、1200。
左腕、1180。
大腿部、1350。
頭蓋骨の硬度、計測不能。
どこもかしこも規格外の装甲だ。
だが、数値が読める場所は「弱点ではない」ということでもある。エジソンが電球のフィラメントを探した時のように、一つずつ可能性を消していく。
できないことの確認が、正解への道を削り出す。
背面の筋肉層だけ、わずかに数値が低かった。密度980。
他と比べれば明確に薄い。
消去法で最後に残った、唯一の候補。
(ここだ。ここしかない)
健一はその結論をメモに走り書きし、莉奈が戻る瞬間に備えた。この数字が正しいかどうかは分からない。ノイズの中から拾った断片だ。でも、今の自分にはこれしかない。
「よく見ろ……。装甲の薄い場所、動きの癖、魔力の流れ……絶対に、何かあるはずだ……!」
健一は、恐怖で悲鳴を上げそうになる自分を必死に殺しながら、ミノタウロスの巨体をミリ単位で観察し続けた。
消去法の先にあるはずの答えを、まだ掴みきれていない。それは、やがて来る『反撃の瞬間』のための、決死のデータ収集だった。
だが、データを集めるだけでは莉奈を守れない。いくら弱点を見つけても、あの斧が振り下ろされた時、自分には止める力がない。情報だけの人間にできることの限界を、健一は痛いほど分かっていた。
その時、視界の端で何かが変わった。スキル欄のグレーアウトされた文字が、一瞬だけ明滅したのだ。読めない。だが、アイコンの形だけは見えた。
盾。
あのトラップ通路で見えたヒント。『守護の意志』。あの時は意味が分からなかった。でも今、ミノタウロスの前で逃げずに踏みとどまっている自分がいる。莉奈が戻ってくるまで、ここを動かないと決めた自分がいる。
(守る、ということ。莉奈が戻ってきた時に、ここにいること。それが今の僕にできる、たった一つの……)
文字は再びグレーに沈んだ。
だが、健一の中で、何かが確かに動き始めていた。
* * *
「そこを退けぇぇッ!!」
音もなく金色の光が走り、莉奈の鉄パイプがタロスの膝を穿った。衝撃が腕を伝わる前に、青銅の巨体が横向きに崩れ落ちる。迷宮を下へ下へと進むにつれ、モンスターのランクも上がり、数も増えてきている。
莉奈はすでに、満身創痍だった。制服は煤と血で汚れ、金髪は汗で額に張り付いている。MPの温存も限界を超え、数回の【雷纏】を使用してしまった。
残りは『8/30』。
だが、ふと気づいた。視界の端のステータス画面に、見慣れない表示が点滅している。『Lv.1 → Lv.3』。レベルとかいう数字が勝手に上がっている。健一なら「経験値が溜まったんだ」とか嬉しそうに解説するのだろうが、莉奈にはそんな理屈はどうでもよかった。
要するに、さんざん殴って殴られてるうちに、なんか強くなったらしい。身体の奥に、以前はなかった余白のようなものを感じる。雷を溜め込める器が少しだけ広がった代わりに、常に微かな頭痛が付きまとうようになっていた。
力を得るたびに、何かを差し出している。
それでも、莉奈の足は止まらなかった。地鳴りのようなボスの足音が、すぐそこまで近づいてきている。空間の歪みを抜け、見覚えのある螺旋階段の裏側へと転がり出た。
「っ、着いた!」
莉奈の視線の先には、先ほど自分が引き離された、あの防火扉があった。
扉は半開きになっており、中からミノタウロスの怒号が響いている。
莉奈は得物を両手で握り直し、一切の躊躇なく、その扉へと飛び込んでいった。




