第15話 絶対的な暴力と、引き裂かれた掌
ギギギギ……ッ!!
錆びついた防火扉を押し開けた瞬間、莉奈の顔から血の気が引いた。
扉の向こうに広がっていたのは、かつての半蔵門線プラットホームの面影をかろうじて残した、広大な闘技場のような空間だった。線路はひしゃげ、ホームのコンクリートは無惨に砕け散っている。天井を這う蛍光灯は不規則に明滅し、空間の中央に鎮座する『途方もない水晶』──ダンジョンのコアと思われる赤紫色の結晶体を照らし出している。
だが、莉奈の視線はそのコアには向かなかった。
否、向けることなどできなかった。
「……嘘、でしょ」
莉奈は鉄パイプを握る手を震わせながら、呆然と呟いた。
ダンジョンコアの前に、まるで門番のように陣取っていた『それ』は、これまで遭遇したどの怪物とも次元が違っていた。
身長は三メートルを優に超えている。はち切れんばかりの異常な筋骨を誇る黒い肉体に、巨大な牛の頭部。太い鼻息と共に吐き出される空気は白く濁り、血と獣の強烈な悪臭を放っている。その右手には、莉奈の身長よりもはるかに大きい、赤黒い血がこびりついた両刃の戦斧が握られていた。
「ミノタウロス……っ!」
背後で、健一が悲鳴のような声を上げた。
「莉奈、撤退だ! 螺旋階段まで戻れば、あの体格じゃ追ってこれない……!」
健一が即座に最適解を弾き出す。だが、莉奈の足は床に縫い付けられたように動かなかった。あまりにも濃密な殺気に、身体が防衛本能で硬直してしまっていた。
『グルルル……ォォォォォォッ!!!』
ミノタウロスが天を仰ぎ、咆哮を上げた。ただの雄叫びではない。空気が物理的な衝撃波となって莉奈たちを襲い、背後の螺旋階段のコンクリートに無数の亀裂が走った。
世界が揺れた。
耳の奥で鳴り続ける低音が消えた時、莉奈が振り返ると、階段はすでに崩れ落ちていた。粉塵と瓦礫が退路を完全に塞いでいる。逃げるという選択肢が、物理的に消滅した。
その、無意識に踏み出した一歩が。
安全だと思い込んでいた、扉のすぐ内側のタイルの上だった。カコン。
「え?」
不自然に沈み込む、嫌な感触。
直前まで、健一の【解析】はボスのステータス異常に気を取られ、足元のスキャンが疎かになっていたのだ。
足元に、禍々しい赤い魔法陣が展開された。転移トラップ。
「莉奈ッ!!」
健一が、弾かれたように前に飛び出した。
彼の脳裏に、先ほどの崩落トラップでの出来事がよぎったのだろう。また一緒に落ちてでも、離さないという覚悟で、彼は莉奈に向かって手を伸ばした。だが、転移トラップの作動は、崩落よりもはるかに速かった。
「健一、来ないでッ!!」
莉奈は叫んだ。
自分が罠を踏んだ。それは確実だ。もし健一が巻き込まれれば、戦闘能力ゼロの彼は間違いなく死ぬ。だから莉奈は、健一の伸ばした手を掴む代わりに、自ら後ろへ身体を反らせて、彼の手を避けた。
「りな……っ!」
健一の指先が、莉奈のルーズソックスの裾に触れるか触れないかという瞬間。
バキィィィッ!!
と、空間が割れるような音が弾け、莉奈の視界は真っ白な光に包み込まれた。
* * *
「っ!?」
冷たいコンクリートの床に背中から叩きつけられ、莉奈は激しく咳き込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ……! な、に、!?」
視界の白い残像が消え、徐々にピントが合ってくる。見知らぬ連絡通路だった。非常灯すら壊れ、完全な暗闇に近い。空気はカビ臭く、どこからか水滴の落ちる音が聞こえる。ミノタウロスの咆哮も、息が詰まるほどの重圧も、消え失せていた。
「……健一?」
莉奈は這い上がるようにして立ち上がり、周囲を見回した。誰もいない。暗闇がどこまでも続いているだけだ。
こわばった指で、空中にステータス画面を呼び出す。パーティーメンバーの欄。そこにある高橋健一のアイコンは、灰色に反転し、『通信途絶』という赤い文字が点滅していた。
分断された。
自分だけが、ダンジョンの別の区画へ飛ばされたのだ。
「……嘘でしょ。待ってよ、そんなのあり得ない」
莉奈は壁に背中を預け、ズルズルとその場にしゃがみ込んだ。
一人は慣れているはずだった。
そう思い込んでいたかった。でも今、暗闇の中で膝を抱えている自分は、あの穴底で健一に「まだ歩ける?」と聞いた時の自分とは、もう別の人間になっていた。歯の根が合わなくなっているのは、一人が怖いからじゃない。健一がいない、ということが怖い。
自分が飛ばされたから怖いのではない。自分が飛ばされた『後』に残された者のことを想像して、怖かった。
健一は【戦術士】だ。ナビゲーション能力には優れるが、直接的な戦闘力は皆無。その彼が今、あの暴力そのものと化した怪物であるミノタウロスの前に、たった一人で取り残されているのだ。
「……あいつ、一人じゃ逃げることもできないくせに」
声に出してから気づいた。
莉奈は、自分の手がガタガタと震えているのを見つめた。怒りではない。強がりでもない。
純粋な『心配』と『後悔』だった。
なぜ、あの一歩を不用意に踏み出してしまったのか。なぜ、健一の手を避けてしまったのか。「一人で平気」だと強がっていた代償が、たった一人のダチの命を奪うことだとしたら、自分は一生自分を許せない。
「っ、ふざけんな。アタシの許可なく死んだら、マジでぶっ殺すから!」
莉奈は両手で自分の頬を思い切り叩いた。
パンッ、と乾いた音が暗闇の通路に反響する。
震えが止まった。瞳に、怒りとも悲しみともつかない、強烈な光が宿る。
莉奈は鉄パイプを拾い上げ、立ち上がった。
右手に、黄金色の閃光が再びバチバチと迸る。
MPは『15/30』。
足りるかどうかは関係ない。
使い切って死ぬなら、それまでだ。
「待ってなさいよ、バカ健一」
莉奈は、黄金の雷光を纏ったまま、暗闇の迷宮を全速力で駆け出した。




