第13話 崩落と、暗闇での沈黙
カコン。
莉奈の足元で、何かが不自然に沈み込む音がした。健一の【解析】スキルの範囲外。安全地帯だと思い込んで気を抜いた、ほんの一瞬の隙だった。
カチン、と小さな金属音。起動音。
莉奈の足元の床が落とし穴のように消失した。
「えっ──」
声を出した時には、すでに莉奈の身体は宙に浮いていた。真っ逆さまに暗闇の底へ引きずり込まれる。
「莉奈ッ!!」
健一が、躊躇いなく穴の中へ身を躍らせた。落下していく莉奈の腕をガシッと掴む。だが、運動神経ゼロの彼に落ちていく人間の体重を支えきれるはずがない。
「バカッ、何やって……、!」
制止も虚しく、二人はもつれ合うようにして縦穴へと落下していった。
莉奈は空中で強引に身体を捻り、パイプを縦穴の壁面に全力で突き立てた。けたたましい金属音と火花。無理やり落下速度を殺した直後、二人の身体はドサッと埃まみれの床に叩きつけられた。
「っ、痛ぁ」
莉奈は顔をしかめながら上半身を起こした。全身が軋むように痛むが、骨は折れていない。
「健一、生きてる?」
すぐ隣で「ゲホッ、ゴホッ……、」とむせる音がした。
「なんとか……莉奈、怪我は……?」
「ないわよ。……、何考えてんの、自分まで落ちてきて」
憎まれ口を叩きながらも、莉奈の心臓はまだ早鐘のように打っていた。
健一がスマホのライトを点けた。
バッテリー残量僅か。弱々しい光が照らし出したのは、配管やケーブルが剥き出しになったメンテナンス用の地下空間だった。上を見上げても、落ちてきた穴は暗い口を開けているだけで、到底登れそうにない。
「すっかり道を外れたじゃん」
莉奈は壁を背にして座り込んだ。MPは『2/30』。枯渇寸前。健一の言い方がいつの間にか移っている自分に気づいて、莉奈は小さく舌打ちした。
「少し、ここで休もう」
健一も、莉奈の隣に少し距離を空けて座り込んだ。スマホのライトを消すと、暗闇と静寂が二人を包み込んだ。遠くで水滴が落ちるピチョン、という音だけが響いている。
長い沈黙が続いた。
暗闘の中で、莉奈は不意に──中学二年の夜を思い出した。
あの夜も、こんなふうに暗かった。部屋の電気を消して、布団の中で目を閉じていた。廊下から足音が聞こえた。父の足音。重い荷物を引きずる音。玄関のドアが開く音。そして──閉まる音。
暗闇の中で、声だけが聞こえた。父が母に何か言っていた。内容は聞き取れなかった。でも、声のトーンだけは分かった。低くて、震えていて、何かを堪えているような声。
あの時と同じだ。暗闇の中で、すぐ近くにいる人間の声だけが聞こえる。違うのは──あの夜の足音は「去っていく」音で、今の健一の呼吸は「隣にいる」音だということ。
莉奈は、その違いを考えまいとした。考えると、余計なことまで考えてしまう。父のことは、もう考えたくない。
莉奈は何も言わなかった。
健一も何も言わなかった。
これまでなら、健一が何か話しかけて、莉奈がそっけなく返す。そんなパターンの繰り返しだった。でも今は、どちらも言葉を探しあぐねていた。
暗闇の中で、莉奈は自分の右手を握ったり開いたりしていた。さっき、健一が差し出してきた手の温度が、まだ掌に残っている。莉奈は無意識にその手を反対の手で覆い、隠すように膝の間に挟んだ。
健一のほうは、暗闇の中で自分のステータス画面を静かに見つめていた。さっきの落下の衝撃で、【解析】スキルのウィンドウにノイズが走っている。その中に、一瞬だけ見えた数字があった。
『高橋健一 推定寄与率:14%』
パーティーの勝利に対する、自分の貢献度。残りの86%は、莉奈の戦闘力だ。自分がいなくても、莉奈は84%の確率で──。
健一は、その画面を静かに閉じた。
「なあ、莉奈」
しばらくして、健一がぽつりと口を開いた。
「何」
「僕さ、小学校の頃から、いつも莉奈の後ろを歩いてただろ」
「いきなり何よ」
「あれ、実は……、前を歩くのが怖かったんだ。先頭を歩いたら、道を間違えた時に責任を取らなきゃいけない。後ろにいれば、莉奈が切り開いた道をついていくだけで済む。……ずるいよな、僕は」
莉奈は暗闇の中で目を細めた。健一がこんなことを言うのは初めてだった。
「今もそうだ。僕は後ろからナビゲートしてるだけで、実際に殴られて、血を流して、MPをすり減らしてるのは全部莉奈だ。僕はただ、安全な場所から指示を出してるだけの──」
パシッ。
乾いた音が暗闇に響いた。莉奈が、手探りで健一の肩を叩いたのだ。それなりに強く。
「痛っ!」
「黙りなさい」
莉奈の声は、冷たくも温かくもなかった。
ただ、静かだった。
「アンタがいなかったら、アタシは交差点で死んでた。虫にも食われてた。地雷原も渡れなかった。それは事実でしょ」
「でも──」
「『でも』じゃないの。アタシが聞きたいのは一つだけ」
「……アンタ、まだ歩ける?」
健一は、暗闇の中で莉奈の声の方向を見つめた。目は見えない。でも、莉奈がどんな顔をしているか、不思議と分かった。怒ってもいない。優しくもない。ただ、真っ直ぐにこちらを見ている。
「歩ける」
「なら、さっさと立ちなさいよ。じめじめした場所はもう限界なの」
莉奈はそう言って、暗闇の中で立ち上がった。
健一も、少し遅れて立ち上がる。
二人は何も言わずに歩き出した。特別な言葉は交わさなかった。肩を並べるでもなく、いつもの距離感で、暗闇のメンテナンス通路を進んでいった。
莉奈が前、健一が二歩後ろ。
ただ一つだけ、変わったことがある。
健一のリュックには、莉奈のためのメモがもう増えなかった。
その代わりに、彼は自分自身のスキルの限界と可能性を、ウィンドウの中で静かに探り始めていた。




