第12話 不可視の地雷原と、素手の覚悟
「ストップ、莉奈。そこから右斜め前、四十五度の角度で二歩進んで」
薄暗い通路に、健一の張り詰めた声が響く。この階層は、上のフロアとは空気が違った。音が吸い込まれるように消え、壁の表面が不自然に滑らかだ。まるで、ダンジョンそのものが息を潜めている。
莉奈は言われた通りに、慎重にステップを踏んだ。
「これ、端から見たら変なダンス踊ってるみたいじゃない?」
軽口を叩きながらも、莉奈の背中はじっとりと冷や汗で濡れていた。一見すると何の変哲もない地下通路。だが、健一のマップ上では、この数十メートルの空間は真っ赤な警告マーカーで埋め尽くされているらしい。
「笑い事じゃないよ。今、莉奈が左足のすぐ横にある色の濃いタイルを踏んでいたら、壁から毒矢が飛んできてた」
「マジで言ってんの?」
「感圧式のスイッチと射出孔へ繋がる魔力のラインが、はっきり見えてる」
健一の声は張り詰めていたが、その裏に別の緊張が混じっていることに、莉奈は気づかなかった。
だが今、健一の視界の片隅には、望んでもいない数値が浮かんでいた。
『パーティーメンバー:神崎莉奈 推定生存確率──』
健一は意識的にその表示から目を逸らした。見てはいけない。あの数字を見てしまったら、冷静にナビゲーションなどできなくなる。
「次は左足から、大股で一つタイルを飛ばして。その次は、つま先立ちで静かに」
「了解」
莉奈は健一の指示通りに身体を動かした。右へ、左へ。アクロバティックに跳躍し、這いつくばって進む。一歩でも間違えれば死ぬ。それでも迷いはなかった。
「莉奈、一旦止まって!」
通路の中間地点で、健一が鋭く叫んだ。
「マズい。この先、罠の密度が高すぎる。安全な足場が一直線上にはない。ジグザグに飛んでいくしかないけど、ギリギリの距離だ」
健一の声が震えていた。彼の視界には、わずかなミスも許されない針の穴を通すようなルートが浮かび上がっているのだろう。そして、その横で、あの忌まわしい数値がちらちらと瞬いている。
「距離と方向、正確に教えなさい」
莉奈はパイプを強く握り直し、短く息を吐いた。
「えっ……、でも、もし僕の目測が甘かったら」
「いいから」
莉奈は振り返らず、前を見据えたまま言い放った。
「アンタが『そこが安全だ』って言うなら、アタシは全力でそこに飛ぶ。それだけ。ウダウダ悩んでる暇があったら、とっとと道幅計算しなさいよ」
その言葉を聞いた瞬間、健一の視界の端で明滅していた『推定生存確率』の表示が、ふっと消えた。健一が無意識に、遮断したのだ。
確率なんて、どうでもいい。
目の前のこの一歩を、正確に導く。
それだけが、今の自分にできる全てだ。
「分かった。いくよ。まずは右前方の壁際、柱の影にあるひび割れたタイルの上。距離は二・五メートル!」
「よっ、と!」
莉奈はバネのように跳躍し、指示されたポイントへピンポイントで着地した。セーフ。
「次は左、斜め後ろ! 距離一メートル!」
「次、真っ直ぐ三メートル先の黒い染みの上!」
「最後! 右の壁を蹴って、そのまま通路の出口まで飛んで!」
健一の矢継ぎ早の指示に、莉奈は一切の思考を挟まずに身体を反応させた。床を蹴り、壁を蹴り、空中で身を捻る。
ダンッ!!
最後の大ジャンプを決め、莉奈は通路の出口、安全地帯へと転がり込んだ。
「はぁっ、はぁっ!」
背後を振り返ると、数十メートルの地雷原の向こう側で、健一が全身汗だくのままへたり込んでいた。
「何よ、その顔。アンタのほうが死にそうじゃん」
「寿命が十年縮んだ……。でも警告マーカーが消えた……」
健一がふらふらと安全なルートをなぞりながら歩いてきた。
莉奈はその姿を見て、一瞬だけ──別の歩き方を思い出した。父が最後に廊下を歩いていった時の、迷いのない足取り。一度も振り返らなかった背中。
健一の歩き方は正反対だ。ふらふら。へろへろ。何度もこっちを見ながら。──でも、こっちに向かって歩いている。あっちに向かってではなく。
その違いが、チクッとした痛みを連れてきた。すぐに消えた。
「アンタのナビ、マジで神だったわ。アタシ、あの糸がなきゃ死んでた」
莉奈は、照れくさそうに視線を逸らしながら言った。
健一はぼんやりと自分の手を見つめていた。震えが止まらない。罠の配置を読み解く集中力よりも、あの『数値』を見ないようにする精神力のほうが、何倍も消耗した。
(……、僕は、莉奈を守れているのか。それとも、莉奈に守られているだけなのか)
その問いを、健一は口にしなかった。代わりに、リュックからメモを取り出し、通過したトラップの配置パターンを無言で書き込んだ。少しして警告マーカーが再び点灯し始めた。
ふと、ペンが止まった。さっき莉奈がパイアを殴った時のことを思い出したのだ。交差点で同じ相手を一撃で粉砕した雷が、今は二発かかっている。MPは足りていた。なのに威力が違う。
健一は莉奈のステータスを確認した。EPバーが、交差点にいた時の三分の一以下に落ち込んでいる。
(EPは場所に紐づいてる。人の感情が密集する場所ほど濃い。交差点ではフル充填、最深部では枯渇──つまり、ボス戦は最も不利な条件で戦うことになる)
メモの隅に、健一は赤い下線付きで書き加えた。
『EP=場所の感情密度。深層=枯渇。ボス戦は雷が死ぬ→別の切り札が要る』
「よし。少し休んだら次行くわよ。この奥が、いよいよ半蔵門線のホームっしょ」
莉奈が立ち上がり、何気なく一歩を踏み出した。
健一の【解析】の範囲外。
安全地帯だと思い込んでいた、その場所で。
カコン。
莉奈の足が、不自然に沈み込んだ。




