第11話 深層へのエスカレーターと、色褪せた日常
山岸たちと別れ、二人はさらに深くへ向かった。ヒカリエ方面の通路を選ぶ。もう最短ルートにこだわる気はない。
半壊したショーウィンドウの残骸が並ぶ通路で、生存者に出会った。ヒカリエの地下搬入口の前に、三人がバリケードを組んでいた。ショーケースと商品棚を横倒しにして積み上げた、頼りない壁。
スーツの中年男性。額に血の滲んだハンカチを押し当てている。大学生くらいの女性。左足首が腫れ上がって、立てないらしい。店員のエプロンをつけた若い男。腕を三角巾で吊っている。
三人とも、莉奈と健一を見た瞬間に目の色が変わった。助かった、という顔。
その目を、莉奈は知っていた。誰かに寄りかかろうとする目だ。
「お願いだ、ここにいてくれ。君がいれば化け物が来ても……」
「悪いけど、アタシたちはこの先に進むから」
莉奈がきっぱり言い切ると、男性の顔が歪んだ。
「コアとやらを壊しに行ったやつは戻ってこないんだよ。それでもまだ行くのか。あんたたちが死んだら、ここにいる全員の安心材が消えるんだぞ。──自分のことしか考えてないのか」
莉奈の足が止まった。
自分のことしか考えてない。
その言葉を、莉奈はつい数時間前に自分の口で言っている。スクランブル交差点の手前で、囮になろうとした健一に向かって。あの時は正しいと思って投げた。今、同じ形のものが自分に返ってきた。
反論は喉まで来ていた。
じゃああんたたちは何をした。バリケードを組んで震えてただけでしょ。誰かが動かなきゃ、この檻は永遠に閉じたままなんだけど。
言わなかった。言えば楽になるのは自分だけだと分かっていたからだ。
代わりに、大学生の女性を見た。腫れた足首を抱えて、こちらを見上げている。莉奈と同じくらいの年齢に見えた。制服ではなく、私服で、爪にはベージュのネイルが塗ってある。派手ではない。誰にも喧嘩を売らない色。
その子が、小さな声で言った。
「……行かないで」
莉奈の指先が、無意識に得物を握り直した。
行かないで。この三年間、莉奈が誰にも言えなかった言葉だった。
玄関で靴を履く父の背中に向かって、喉の奥で潰した言葉。それを、今、他人の口から投げつけられている。
残ってやりたい。守ってやりたい。誰かの「安心材」になれるなら、それは莉奈が一度も手に入れたことのない役割だ。
でも。
残ったら、この三人しか守れない。ドームの中には何万人もいるはずだ。ハチ公口の交差点に取り残された連中も、地下街に閉じ込められた店員も、全員が誰かの「行かないで」を背負っている。
莉奈は歯を食いしばった。
誰かを見捨てることと、全員を助けようとすることの区別が、この瞬間だけつかなくなった。
「ここに残って全員を守り続けるのと、コアを壊して全員を助けるのと──どっちが『自分のことしか考えてない』かは、結果が出てみないと分かりません」
健一の声は震えていたが、目は逸れなかった。
全員が口を閉じた。
健一はリュックから水のボトルを二本取り出した。一本を莉奈に渡し、もう一本をバリケードの上に置く。
「これは僕の分です」
莉奈は受け取ったボトルに目を落とした。自分の分まで置け、と言っているわけではないらしい。持っていくか、置いていくかは自分で決めろ、ということだ。
莉奈は受け取った水を握ったまま、ポケットから、さっき健一にもらったレモンのタブレットを取り出した。半分以上残っている。それをバリケードの上に、健一の水の隣に並べた。
何も言わずに置いて、背中を向ける。
──父と同じ形だ、と思った。思った瞬間、足が止まった。
莉奈は振り返ると、バリケードまで二歩戻った。置いたばかりのレモンタブレットを掴み、大学生の女性の手に押しつける。
「これ持ってなさい。英雄気取りかどうかは、戻ってきた時に判定してくれる?」
女性が目を見開き、レモンタブレットのケースを両手で握った。
莉奈はそれ以上待たずに歩き出した。
今度は、振り返らなかった。あの子の目を見たら足が止まる。
十歩ほど進んだところで、背後から声が飛んできた。
「気をつけて」
誰の声かは分からなかった。三人のうちの誰かだ。
莉奈は手を上げなかった。返事もしなかった。ただ、歩幅が少しだけ大きくなった。
健一が半歩後ろで、何も言わずについてくる。責めもしないし、褒めもしない。それが今は、ちょうどよかった。
止まったままの長いエスカレーターを、足音を殺しながら下りた。空間が歪んでいる。もう普通の駅ではなく、ダンジョンのサイズに作り変えられている。
壁の案内板がまだ残っていた。
『←ハチ公口 宮益坂口→』
健一が立ち止まった。
「莉奈、一歩左に。ハチ公口の方角に」
言われるがまま体を傾けると、EPバーが僅かに明るくなった。
「やっぱりだ。ハチ公口に近づくとEPが回復する。離れると減る。──コアの位置が分かるかもしれない」
「マジ?」
「ハチ公口の真下。感情の密度が最も高い場所が起点なら、コアはその直下だ。半蔵門線のホームがちょうど真下を通ってる」
健一がメモの路線図に同心円を描き加えた。攻略の鍵は渋谷の地理。日常の記憶が、迷宮攻略の武器になっていた。
「足元に気をつけて。この先、マップ上に赤い警告マーカーが無数に点滅してる」
「警告マーカー?」
「トラップ≪罠≫だ。このダンジョン、物理的な罠まで仕掛けてある」
莉奈の表情が引き締まった。
「ナビ、頼んだわよ。一歩でも間違えたら、アンタのこと一生恨むから」
「プレッシャーかけないでよ……でも、任せて」




