外伝 第36話 はじめまして
約束より早く着いたのに、柳はもう座っていた。
名古屋駅近くの喫茶店。
窓際の席で、大学の資料らしい紙を広げている。
ダイが入口で足を止めると、柳が顔を上げた。
あの時と同じ顔だった。
ただ、笑っていなかった。
初めて見る相手を確かめるように、ダイの制服から顔へ視線を移した。
「杉浦くん?」
「はい」
「はじめまして。柳です」
柳が立ち上がりかけた。
ダイは慌てて頭を下げた。
「杉浦です。今日は、ありがとうございます」
言えると思っていた『ダイでいい』は、
出てこなかった。
* * *
五月、連休が明けてからのことだった。
名古屋の迷宮から退避した十一人は、生きていた。外へ戻って担架の柳を見た時、ダイはその胸が上下していることを確かめた。
それだけで、ようやく息ができた。
でも、誰も迷宮の中を覚えていないと聞いてから、何をすればいいか分からなくなった。
名前は覚えている。今は一人ずつ思い浮かべられる。
それでも、自分から連絡するには時間がかかった。
当時の対応窓口へ、連絡を取り次いでもらえるか相談した。担当者は、先方が望まなければ会えないと伝えた。
ダイはそれでいいと答えた。
電話を置いてから、何を話すのかを考え始めた。
柳から会ってもいいという返事が来たのは、その後だった。
今、目の前の柳は紙を片づけ、メニューをダイへ渡している。
「何か頼む?」
「コーヒーで」
「俺も、もう一杯にしようかな」
柳が店員を呼んだ。
上げた右手へ、ダイの目が吸い寄せられた。
瓦礫の下から突き出た手。立てられた親指。最後まで笑っていた顔。
柳が手を下ろした。
「どうした?」
「いえ」
ダイは膝に置いていた手を机へ出した。
「あの中で、俺たち、一緒にいました」
「そう聞いた。君は、全部覚えてるんだよね」
「はい」
「俺は、駅にいたところまでは分かる。次は外で寝てて、いろいろ聞かれたんだけど、答えられなかった」
柳は、自分のカップの底に残ったコーヒーを見た。
「知らないうちに何かしてたって、変な感じだな」
ダイは鞄からメモ帳を出しかけ、やめた。
「話しても、大丈夫ですか。あの時のこと」
「どのくらい長い話?」
「……長くなると思います」
「じゃあ、今日は少しだけ。全部聞いて何ともないかは、聞いてみないと分からない」
柳がそう言ったので、ダイは頷いた。
コーヒーが来た。
店員が離れるまで、二人とも何も言わなかった。
「俺がリーダーをやると言いました」
ダイは、最初の一つを話し始めた。
十四人が残されたこと。
出口へ向かって歩いたこと。
柳が【硬化】というスキルで、前に立ったこと。
「格闘技をやってると言っていました。それを聞いて、俺が前衛に決めたんです」
「それは今もやってる。身体が大きいから、ってだけで言ったわけじゃないんだな」
「はい。でも、その後、名前を呼ばなくなりました。前衛、としか呼ばなくて」
柳は眉を少し寄せた。
怒ったのか、考えているのか、ダイには分からなかった。
「大きな敵を止めてもらいました。三十秒。その間に、ほかの人が後ろへ回るために」
カップの取っ手へ指をかけた。
持ち上げることはできなかった。
「無理をしてるの、見えてました。それでも、あと十五秒、と言いました」
「……俺は、どうしたの」
「最後まで止めてくれました。敵は倒せた。でも、その下敷きになって……」
ダイはそこまで言って、顔を上げた。
柳はこちらを見ていた。
「それで、外へ出された?」
「はい」
ダイは、机の上で手を握った。
「あの時は、死んだと思いました。でも、立ち止まらずに進んだんです。残った人数だけ、数えて」
すぐ近くでスプーンの音がした。隣の卓で、誰かが砂糖を混ぜている。
「すみませんでした」
言ってから、ダイは頭を下げた。
柳はすぐには答えなかった。
ダイは顔を伏せたまま、返事を待った。
コーヒーの湯気が、手の前を通り過ぎた。
「……頭、上げて」
言われた通りにした。
「正直、まだ分からない。怖かったのか、君に腹が立ったのか、自分が何を考えてたのかも」
ダイは頷いた。
「今、謝ってくれたことは聞いた。でも、俺が大丈夫だって言えば済む話かは、分からない」
「はい」
「君も、今ここで返事が欲しくて来たの?」
ダイは息を吸った。
欲しくなかったと言えば、嘘になる。
「……欲しかったです。でも、聞けたら安心して帰ろうとしてたと思います」
柳はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。
「それは、今日の俺には難しいな」
「はい」
ダイもようやく、自分のコーヒーを飲んだ。
熱さは、少し引いていた。
「一つだけ、確かめてもいい?」
「はい」
「俺が止めてる間に、みんなが動けたんだよな」
「はい。柳さんが止めてくれたから、倒せました」
柳はカップを見下ろした。
「そっか。……俺も、手助けはできたんだな」
ダイは頷いた。
「柳さんも、ほかのみんなも。誰か一人でもいなかったら、同じようには進めませんでした」
「……それは、聞けてよかった」
* * *
柳が資料を鞄へ戻した。
「今日は、このへんでいい?」
「はい。ありがとうございました」
ダイは時計を見た。
話せなかったことの方が、ずっと多かった。
柳は立ち上がり、鞄の肩紐を直した。重そうな鞄だった。
「大学の帰りですか」
「そう。課題が溜まってて。ああいうことがあっても、提出日は待ってくれないんだな」
ダイは返事を探し、結局、少しだけ頷いた。
「君、高校生だろ。部活とか、やってる?」
「サッカーです」
「ポジションは?」
ダイが答えると、柳は頷いた。
あの中では一度も訊かれなかったことだった。
柳はサッカーに詳しいわけではなく、ダイも格闘技の種類による違いはよく分からなかった。
それでも店を出るまで、部活の話をした。
会計は別々に払った。
ダイが柳の分へ手を伸ばすより先に、彼が伝票を分けてもらっていた。
店の外で、柳が立ち止まった。
「連絡先、渡してもいい? 今日聞いたことで、あとから訊きたいことが出るかもしれない」
「はい」
ダイはスマホを出した。
登録する名前を、本人の前で確かめた。柳が読み方を答える。
聞き覚えのある音を、ダイはもう一度、口の中で繰り返した。
「聞きたくないことがあったら、途中でも止めてください」
「分かった。俺もいろいろ訊くかもしれないけど、答えにくかったら、そう言って」
柳は駅の方へ歩いていった。
ダイはその背を、角を曲がるまで見ていた。
スマホには、新しく連絡先が一つ増えていた。
* * *
駅の待ち合わせ場所には、テツとマーサがいた。
マーサがこちらを見つけ、手を上げた。
途中まで振りかけて、ゆっくり下ろす。
「終わった?」
「今日の分は」
「そっか」
マーサはそれ以上訊かなかった。
テツも、スマホをしまっただけだった。
三人で歩き出した。
しばらくして、ダイが口を開いた。
「また連絡するかもしれないって」
「うん」
「何を訊かれるか、分からん」
テツが頷いた。
「訊かれたら、考えよう」
ダイは鞄の肩紐を持ち直した。
ホームへ向かう途中、スマホが鳴った。
柳からだった。
『今日はここまで。続きは、またこちらから連絡します』
ダイは歩く速度を落とし、返信欄へ触れた。
『分かりました。今日はありがとうございました』
送ってから、
二人の背中を探した。
テツもマーサも、
少し先で待っていた。




