外伝 第35話 二つの肉じゃが
保護施設の台所から、焦げた匂いがした。
「ダイダロスさん、また火加減間違えてない?」
莉奈が台所を覗くと、ダイダロスが困惑顔でフライパンを握っていた。
数千年の天才設計者。迷宮を設計し、翼を造り、時空を超えた男が──目玉焼きを焦がしている。
「莉奈さん。この『IH』という装置は、火が見えないのに熱が出る。理屈は分かるが──感覚が追いつかない」
「火加減は弱火って言ったでしょ。これ、炭でしょ。卵の炭」
ダイダロスは恥ずかしそうに視線を逸らした。
設計図は完璧に引けるのに、火加減の調節ができない。
莉奈は焦げた卵と、フライパンを持つ手元を見比べた。
五月に入った週末。この日は「ダイダロスの料理教室」の日だった。
莉奈が週末に施設を訪問するたびに、ダイダロスが何かを作りたがる。
「この国の料理を覚えたい」と。
古代ギリシャの知識で作る「オリーブとチーズのパン」は、先週初めて成功した。意外と美味しかった。地中海の風味がする。
「今日は何作るの」
「日本の──肉じゃが、というものを」
莉奈は一瞬、固まった。
肉じゃが。母が、最近作ってくれるようになった料理。
「なんで肉じゃが?」
「イカロスがテレビで見て、食べたいと言ったので」
リビングからイカロスが顔を出した。
「莉奈さん! 肉じゃが! テレビで『おふくろの味』って言ってました! おふくろってお母さんのことですよね!?」
「……そうよ」
イカロスは材料の袋を一つずつ持ち上げ、レシピの写真と見比べていた。糸こんにゃくの袋を傾けると、ダイダロスが慌てて受け取った。
ダイダロスは黙って肉じゃがの材料を並べていた。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉、糸こんにゃく。
レシピはスマホで検索した。
設計図を引くように、手順を正確に守る。だが手が、微かに震えていた。
莉奈は包丁を取り、まな板の前へ立った。
「アタシが切るわ。アンタは煮る係」
「ありがとうございます、莉奈さん」
二人で台所に立った。
数千年の設計者と、十七歳のギャル。
不思議な組み合わせだが、不思議と手が合う。
莉奈が切り、ダイダロスが鍋に入れ、火加減は莉奈が調節する。
完成した肉じゃがをテーブルに置き、三人で囲んだ。
イカロスが一口食べて、目を輝かせた。
「美味しい! ──父さん、料理上手になったね!」
「莉奈さんが手伝ってくれたからだ」
「でも父さんが作ったんでしょ? ──父さんの料理、また食べられた」
イカロスの声が──少しだけ、震えた。
イカロスはもう一口、芋を口に運んだ。
ダイダロスの箸が止まっている。
「父さん、食べないの?」
「ああ。食べる」
ダイダロスは鍋を見てから、芋を一つ取った。
莉奈は自分の皿へ糸こんにゃくを寄せ、
二人の箸が動くのを横目で見ていた。
──母の肉じゃがより、少し甘い。
でも、美味しかった。
* * *
莉奈が家に帰ると、台所の電気がついていた。
母が──肉じゃがを作っていた。
「あ、莉奈。おかえり。今日、肉じゃが作ったけど、食べる?」
莉奈は鞄を下ろした。
施設で食べた分は、まだ腹に残っていた。
母は鍋の蓋を開け、小皿を一枚出している。
「……食べる」
食卓に座った。
母が肉じゃがをよそってくれた。テレビはつけていない。音がないダイニングは、以前なら気まずかった。
テレビの音で沈黙を埋めていた頃が──つい二ヶ月ほど前のことだ。
一口食べた。
ダイダロスの肉じゃがより、少し塩辛い。
でも、この味を知っている。中学の頃。父がまだいた頃。
母が作る肉じゃがは、いつもちょっと塩辛かった。
父は「丁度いい」と言って食べていた。
嘘つき。
「美味しい」
口から出た。自分でも驚いた。
莉奈はもう一口、芋を口へ運んだ。
母の手が止まった。
箸を持ったまま、莉奈を見ている。
「……今、美味しいって言った?」
「言ったわよ。……聞こえなかった?」
「聞こえた。聞こえたけど──」
母は顔を伏せ、指で目元を押さえた。
莉奈は箸を止めかけ、もう一口すくった。
母が顔を上げるまで、莉奈は芋を崩しながら食べていた。
皿の汁までなくなると、母が「もう少しあるけど」と鍋を見た。
「今日はもういい。……また作って」
母は頷き、蓋を戻した。
食べ終わった皿を、自分で洗った。
東京駅の迷宮が起きる前にも、こうして洗った。母はあの日も何も言わなかった。ただ、台所の電気を少し長くつけていた。
今日も、電気を消さないまま、母は洗い物をする莉奈の隣に立っていた。
何も言わない。でも、隣にいた。
部屋に戻ると、莉奈はスマホを見た。金子からスタンプが五個届いている。今日の残り枠は数えていない。
グループチャットに打ち込んだ。
莉奈:今日、母さんに「美味しい」って言えた。
送信してから、恥ずかしくなった。
こんなことを送るなんて、どうかしている。
三秒後。金子から返信。
金子:えらい!!!! 莉奈ちゃんえらい!!!!
(花のスタンプ六連打)
大阪:スタンプ六個やぞ
金子:今日は特別!!
大阪が「今日は許す」と返した。
莉奈は前にも似た返事を見た気がして、
チャットを少し遡った。
島の歌の報告にも、
その返事がついていた。




